歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

古代ローマの都市

イタリア・ローマのフォロ・ロマーノ

古代ローマはローマ七丘を中心に都市が築かれていき、特に神聖とされたカピトリーノの丘の麓にはフォロ・ロマーノが整備されました。フォロ・ロマーノは町の中心の広場という意味で、古代ローマ時代には政治、宗教、経済の中心地として重要な建物が建ち百万人もの人が住んでいました。やがて時代とともに王政から共和政、帝政へと変化する中で、都市にはコロッセオや凱旋門などが建造されていきました。

フォルム・ボアリウム

テヴェレ川のほとりに古代ローマ時代の公共広場であるフォルム・ボアリウムが建造されました。フォルム・ボアリウムにはテヴェレ川を守る神ポルトゥヌスと契約に厳しい神ヘラクレスの神殿が残されています。円形神殿のヘラクレスの神殿は、直径約15メートル、屋根を支えるコリント式円柱の高さは約11メートルあり、ローマに存在する大理石建築のうち最も古いものの一つとされています。これらの神殿は商売繁盛のために建てられただけでなく、カークスの伝説によるものとも言われます。

カークスの伝説

カークスの伝説では、この地域はローマができる前にギリシャから移住した羊飼いたちが住んでいましたが、カークスと呼ばれる巨人が羊飼いたちの羊を奪い食べることがありました。そこにヘラクレスが現れてカークスを退治して羊飼いたちは安心して暮らせるようになりました。

イタリア・ローマのフォルム・ボアリウム

フォルム・ボアリウム

テヴェレ川に建造された港から運ばれた物資が販売され、多くの牛が扱われたため牛の市場(フォルム・ボアリウム)と名付けられました。

イタリア・ローマのフォルム・ボアリウム

フォルム・ボアリウム

ポルトゥヌス神殿はポルトゥヌス神に捧げられたイオニア式の神殿で、紀元前75年に建設され紀元前1世紀のうちに修復されています。

イタリア・ローマのフォルム・ボアリウム_ポルトゥヌス神殿

ポルトゥヌス神殿

4柱式のポルチコと内陣からなる四角い建物で、テヴェレ川の港から物資を市場に運んだことから、港を見下ろすように川の神ポルトゥヌス神を祀る神殿が建てられました。

イタリア・ローマの旅行や観光地、フォルム・ボアリウム_ヘラクレス神殿

ヘラクレス神殿

コリントスの戦いでアカイア同盟軍に勝利したローマの軍人ルキウス・ムンミウス・アカイクスがヘラクレスに捧げるために紀元前2世紀に建設されました。

フォロ・ロマーノの建設

紀元前600年頃に王政ローマ時代の5代タルクィニウス・プリスクスは、エトルリア人都市へ出征して勝利を収めてエトルリア人技術者を連行しました。プリスクス王はエトルリア人の土木技術を活用してローマの貧民階級の人を強制的に公共事業に携わらせました。巨大な下水道のクロアカ・マクシマが最初に建造され、干拓されたローマ七丘の中で最も神聖なカピトリーノの丘の麓の沼地にローマの政治・経済の中心となるフォロ・ロマーノが建造されました。

タルクィニウス・プリスクス

タルクィニウス・プリスクス

戦争で連れて来たエトルリア人技術者を使い、ローマの貧民階級の人を強制的に公共事業に携わらせました。

イタリア・ローマのクロアカ・マクシマ

クロアカ・マクシマ

巨大な下水を意味するローマ時代の一番最初に造られたインフラで現在も使われています。フォロ・ロマーノは下水による干拓で築かれました。

イタリア・ローマのクロアカ・マクシマ

真実の口

紀元前4世紀頃に製造された大理石で作られた円盤で、クロアカ・マクシマの近くで発見されたため下水道のマンホールと言われています。

王政から共和政初期

最も神聖なカピトリーノの丘では宗教的な儀式や凱旋式などが行われ、その麓のフォロ・ロマーノの敷地内には古代ローマで最も神聖なローマ神話の神を祀るサルゥルヌス神殿が建造されました。王政ローマ時代の初代ロムルス王は、諸制度を整備するときに元老院を創設したと言われます。貴族の代表者である元老院は共和政ローマでは事実上の最高意志決定機関でした。

イタリア・ローマのフォロ・ロマーノ_サトゥルヌスの神殿

サトゥルヌスの神殿

古代ローマの神様が祀られていた神殿で、共和政ローマ時代の国の財産を保管していたためアエラリウム(国庫)とも呼ばれていました。

イタリア・ローマの旅行や観光地、フォロ・ロマーノ_クーリア(元老院議場)

クーリア(元老院議場)

古代の国会議事堂のような役割で、演壇があり元老院の意思決定が行われていました。現在残されているクーリアは近年に再建されたものです。

共和政時代

ローマ市民は傲慢なルキウス・タルクィニウス王を紀元前509年に追放して共和政となりました。ルキウス・タルクィニウスは復位を求めてエトルリア人の支援によりローマを攻めました。ローマ市民は戦闘に慣れていませんでしたが、カストルとポルックスの双子神が騎兵として現れ、紀元前496年のレギルス湖畔の戦いでローマ軍に勝利をもたらしました。

イタリア・ローマの旅行や観光地、フォロ・ロマーノ_カストルとポルックスの神殿

カストルとポルックスの神殿

ローマ軍に勝利をもたらした神の神殿で、紀元1世紀に皇帝ティベリウス帝が再建しました。現在は柱が3本だけ残ります。

イタリア・ローマの旅行や観光地、フォロ・ロマーノ_エミリアのバジリカ

エミリアのバジリカ

紀元前179年に商取引などを行う場所としてエミリア一族により造られましたが、410年の西ゴート族の侵攻で破壊されました。

帝政時代

紀元前27年に共和政から帝政に移ると、ローマは皇帝が治める帝政期を迎えました。紀元前27年にローマ元老院はオクタウィアヌスに尊厳者を意味するアウグストゥスの称号を贈り初代ローマ皇帝となりました。アウグストゥスはローマ神話の神を奉る万神殿としてパンテオンを建設しました。

イタリア・ローマのフォロ・ロマーノ

フォロ・ロマーノ

ムッソリーニが自身のパレードのために造営したフォロ・インペリアリ通り沿いには、ネルヴァやアウグストゥスのフォロが並びます。

イタリア・ローマの旅行や観光地、フォロ・ロマーノ_アウグストゥス帝の広場

アウグストゥス帝の広場

紀元前20年頃に建設が始められた初代皇帝の名前が付けられた公共広場で、広場の奥には軍神マルスの神殿が置かれていました。

パンテオン

パンテオンは、紀元前25年に初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近マルクス・ウィプサニウス・アグリッパにより建造されました。後に火災で焼失しますが2世紀前半に五賢帝の一人である皇帝ハドリアヌスが現在のパンテオンを建築します。

イタリア・ローマのパンテオン

パンテオンとオベリスク

1575年に建設されたロトンダ広場の噴水には、1711年にエジプトからローマ皇帝が運ばせたオベリスクが建ちます。

イタリア・ローマのパンテオン

パンテオン

ローマ帝国が滅亡した後も教会として転用されながら現在に至ります。現存する石造りの建築としては世界最大規模を誇ります。

イタリア・ローマのパンテオン主祭壇

パンテオン主祭壇

初代イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の棺桶のほかルネサンス期を代表する芸術家ラファエロの棺桶などがあります。

イタリア・ローマのパンテオンのオクルス

パンテオンのオクルス

ミケランジェロは天使の設計と呟いたと言われる天窓は、室内の空気圧で雨が入りづらい構造で、時間ごとに光が少しずつ移動するように設計されています。

暴君ネロと混乱した時代

一般的に暴君として知られる5代皇帝ネロは、キリスト教を迫害して初代教皇ペトロを処刑し、64年のローマ大火の原因をキリスト教徒の放火と断定して多くのキリスト教徒を処刑しました。さらに政治的に対立した者から母アグリッピーナや妻オクタヴィアなどの身内も殺害したことで68年からローマ内戦が起こり皇帝ネロは自殺に追い込まれました。皇帝ネロが自殺してユリウス=クラウディウス朝が終焉を迎えると、68~69年の短期間にガルバ、オトー、ヴィテリウス、ウェスパシアヌスの4人が皇帝となる混乱した時代を迎えました。皇帝を巡る争いは最後にウェスパシアヌスがフラヴィウス朝を興して終わりましたが、ローマ市民はローマ大火と内戦で疲弊して不満を溜めていました。

皇帝ネロ

皇帝ネロ

ペトロを始めとするキリスト教徒や政治的に対立した者や身内なども殺害したため暴君と呼ばれています。

ローマ大火

ローマ大火

ローマの3分の2が焼失したと言われる大火で、キリスト教徒の放火と断定して多くのキリスト教徒を処刑しました。

ウェスパシアヌスの政策

70年に皇帝に即位したウェスパイシアスは、ローマ大火や内戦で財政が悪化していたため、緊縮政策を進める必要がありました。当時のローマは帝政とはいえ、帝政時代においても市民からの支持が重要であり、人気を獲得するために有力者は市民に対して食糧や娯楽を無償で提供していました。これが俗にいうパンとサーカスで、ローマ大火や内戦で疲弊したローマ市民に対してパンとサーカスを提供することは重要な政策課題の一つでした。ウェスパイシアスは皇帝に対する不満や内戦のストレスのはけ口として、小麦法を拡大させて全市民に対して小麦を配給する仕組みを構築し、当時すでに人気の娯楽である剣闘士の試合を大勢で観戦できる円形闘技場を建設することでローマの建て直しを図りました。

コロッセオの建造

ウェスパイシアスが70年に建造を始めた円形闘技場コロッセオは、皇帝ティトゥス統治時代の80年に完成しました。ウェスパシアヌスとティトゥスはフラヴィウス一族であるため、完成したコロッセオはフラヴィウス円形闘技場と呼ばれました。コロッセオがある限りローマは存在するとまで言われた繁栄の象徴で、罪人の公開処刑のほか、剣闘士の試合で猛獣五千頭、数百人の剣闘士が命を落としたとされています。

ウェスパシアヌス

ウェスパシアヌス

すべてのローマ市民にパンを支給し、コロッセオを建造して娯楽を与えました。これが俗にいうパンとサーカスです。

イタリア・ローマのティトゥスの凱旋門

ティトゥスの凱旋門

皇帝ティトゥスの戦功を称える凱旋門で、エトワール凱旋門の見本となりました。

イタリア・ローマのコロッセオ

コロッセオ

4万人もの奴隷を使い約10年の歳月をかけて完成しました。5~8万人が収容できる観客席は20分以上直射日光が当たらない設計でした。

イタリア・ローマのコロッセオ

コロッセオ

中央部分の地下から猛獣などが出てくる仕掛けや高度な水道技術でコロッセオ内部に水を満たして、模擬的な海戦を見せ物としたこともありました。

五賢帝時代

ティトゥス帝の時代にはヴェスヴィオ火山の大噴火が起き、現在のナポリ近郊にあった古代都市ポンペイが一瞬にして火山灰に飲み込まれた災難の時代となり、ティトゥスの次の皇帝ドミティアヌスは、財政難を建て直すために元老院を抑えて増税を行いましたが、あまりの悪帝ぶりに暗殺されて、以降の皇帝は世襲制ではなく元老院の中から優れた人物を指名するようになりました。こうして五賢帝と呼ばれる5人の有能な皇帝が統治することになり、五賢帝トラヤヌスの時代にはローマ帝国は最大領土を誇り繁栄を極め、後帝のハドリアヌスはギリシャ・アテネでギリシャ文化に触れ、衰退していたアテネの復興に尽力しました。

イタリア・ローマのフォロ・ロマーノ_トラヤヌス帝の記念柱

トラヤヌス帝の記念柱

ダキアとの戦争の様子がレリーフとして描かれており、兵士や捕虜の姿が2500体ほども彫られています。当時はそのすべてに色が塗られていました。

イタリア・ローマのフォロ・ロマーノ_トトラヤヌス帝の市場

トラヤヌス帝の市場

人類史上初のショッピングセンターで、50ほどの店舗で香辛料や貴金属、ワインやオリーブオイルなどが売られていました。

ハドリアヌス帝

ハドリアヌス帝

元老院や市民の反発を抑えてトラヤヌスが拡大しすぎた領土を縮小して国境を巡視してまわり平和の安定化を図りました。

イタリア・ローマのハドリアヌス廟

ハドリアヌス廟

ハドリアヌスが自らの霊廟として135年に建設を開始した霊廟で、アントニヌス・ピウス治世時代の139年に完成しました。

専制君主政

五賢帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの跡を継いだコンモドゥスは、遊興にふけり信頼を失うことで192年に暗殺されました。これにより皇帝を称する者が多く現れましたが、その中でアフリカ出身のセプスティウス=セウェルスが193年に皇帝に即位しました。セウェルスは後継者として兄カラカラと弟ゲタの共同皇帝としましたが、212年にカラカラがゲタを暗殺して皇帝となり、市民から人気を得ようと大浴場を各地に整備しました。皇帝セウェルス=アレクサンデルが235年に暗殺されセウェルス朝が終わりを告げると、軍人皇帝が誕生することになります。284年に皇帝に即位したディオクレティアヌスは、帝国の四帝分治制を導入して帝国支配を維持しようとしましたが、ローマは分断状態となりました。

コンスタンティヌスとキリスト教

皇帝コンスタンティヌスは312年にミルウィウス橋の戦いで四帝のひとりマクセンティウス帝に勝利しローマ帝国の統一の足掛かりとしました。やがてコンスタンティヌスはローマ帝国を再び統一して、コロッセオの隣に凱旋門を建てました。コンスタンティヌスは、313年にミラノ勅令を出してキリスト教を公認してキリスト教の迫害を収めると、皇帝ネロが処刑したペテロの墓所にサン・ピエトロ大聖堂の基となる教会を設立しました。

イタリア・ローマのフォロ・ロマーノ_セヴェルスの凱旋門

セヴェルスの凱旋門

皇帝セプティミウス・セウェルスが東方のパルティア戦争での勝利を記念して203年に建てた大理石の門です。

イタリア・ローマのフォロ・ロマーノ_マクセンティウスのバジリカ

マクセンティウスのバジリカ

マクセンティウスが308年に建設を始めてミルウィウス橋の戦いの同年に完成しました。

イタリア・ローマのフォロ・ロマーノ_ロムルスの神殿

ロムルスの神殿

マクセンティウスが息子ロムルスのために建てた神殿で、マクセンティウスがミルウィウス橋の戦いで戦死したため未完のまま残されています。

イコンスタンティヌス帝

コンスタンティヌス帝

ローマ帝国を再び統一してミラノ勅令でキリスト教を公認しました。

イタリア・ローマのコンスタンティヌス帝の凱旋門

コンスタンティヌス帝の凱旋門

コンスタンティヌスは分断していたローマ帝国を統一して、これを記念してコロッセオの隣に凱旋門を建造しています。

イタリア・ローマのフォロ・ロマーノ_フォカスの記念柱

フォカスの記念柱

601年に東ローマ帝国のフォカス帝を記念して建てられました。フォロ・ロマーノの古代建造物としては最も新しい建造物です。

ローマの衰退

皇帝テオドシウスは、392年にアタナシウス派のキリスト教を国教化して他の宗教を禁止しました。コロッセオはローマ文化として400年近く闘技場として使われていましたが、キリスト教がローマ市民に広まるとコロッセオで行われる残忍な見せ物は禁止され、闘技場としての性質は失われていきました。395年にローマ帝国が東西に分裂すると、首都機能がラヴェンナに移されました。やがてゲルマン人の侵入により西ローマ帝国は衰退していき、476年にオドアケルにより西ローマ帝国は滅亡しました。コロッセオは地震で外壁が倒壊したこともあり、使用されていた良質な石材はローマ教皇の住まいであるサン・ピエトロ大聖堂を始めとするローマ教会などに転用されました。