歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ローマ

イタリア・ローマのフォロ・ロマーノ

ローマはイタリアの首都で約3000年にわたり芸術、建築、文化の面で世界に影響を与え続けている広大な国際都市です。永遠の都と呼ばれフォロ・ロマーノやコロッセオなどの古代遺跡はかつてのローマ帝国の勢力を物語ります。1980年にローマ歴史地区は世界遺産に認定されています。

概要

面積
1,285km2
標高
21m
人口
287.3万 (2017年)
地図

特集

イタリア・ローマのフォロ・ロマーノ

古代ローマの都市

ローマ七丘で最も神聖とされたカピトリーノの丘の麓に整備されたフォロ・ロマーノは、ローマの政治、宗教、経済の中心地となりました。

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イタリア・ローマのハドリアヌス廟(サンタンジェロ城)

ローマで起きた奇跡

ローマ教皇が生活するカトリックの聖地で起きた雪の聖母の奇跡と大天使ミカエルのペスト撃退の奇跡です。

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イタリア・ローマのカンピドーリオ広場

ルネサンスの巨匠ミケランジェロ建築

イタリアに生まれたミケランジェロは、多くの作品を生み出してルネサンスの三大巨匠と呼ばれました。カピトリーノ広場も手掛けています。

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イタリア・ローマのバロックの巨匠ベルニーニ建築

バロックの巨匠ベルニーニ建築

教皇はローマの劫掠で灰燼に帰したローマを復興をバロックの巨匠ベルニーニに依頼し、ローマはバロックの都と呼ばれるようになりました。

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歴史

古代ローマは王政、共和政、帝政へと変化しながら世界国家として大いに繁栄していきました。ローマ帝国が東西に分裂すると首都となり、西ローマ帝国が滅亡するとローマ教皇が権力を得て宗教的な中心となりました。ローマは教皇領として存続しイタリアが統一されて首都となりました。

ローマ建国の神話

ローマは、双子の兄弟が建設したと伝承されています。トロヤ戦争を生き延びたアエネアス将軍の子孫レア・シルウィアは、軍神マルスとの間にロムルスとレムスの双子を生みました。アルバ王アムリウスは、その双子が王位を継承することを恐れて、双子をテヴェレ川に投げ捨てて殺害しようとしました。一命を取り留めた双子は雌狼に育てられ、やがて羊飼いファストゥルスが双子を引き取り、育ての親となりました。

アルバ王アムリウスは双子の生存を知ると、双子の弟レムスを誘拐して王宮に監禁しました。兄ロムルスは羊飼いたちとアルバ王宮に攻め込み、解放したレムスと共にテヴェレ川に新たな都市を建設しました。兄はパラティーノの丘に町を建設し、弟レムスはアウェンティヌスの丘に町を建てました。やがて両者の対立に勝利した兄ロムルスは紀元前753年にローマ王となり、彼の名前からローマと名付けられました。

カピトリーノの雌狼

カピトリーノの雌狼

5世紀にカピトリーノの丘から発見された像で、ローマを建国する双子が雌狼に育てられています。

イタリア・ローマのパラティーノの丘

パラティーノの丘

双子の兄ロムルスが紀元前753年にローマ王として町を建設し、ロムルスの名前からローマと名付けられました。

王政ローマ

ロムルスは戦争でローマを拡大していきましたが、次に王位に就いたヌマ・ポンピリウスは戦争を起こさずに暦を作るなど内政を充実させました。紀元前673年にヌマの跡を継いだトゥルス・ホスティリウスは、ロムルスの出生地であるアルバ王国に侵攻して代表者3人による決闘を行いました。アルバは決闘で敗れて周辺国家と反旗を翻しますが、再びローマに敗れて併合されました。紀元前641年にアンクス・マルキウスが王位に就くと、水道橋を建設してローマに初めて水道を引きました。さらに漁村オスティアを征服したことで、地中海貿易にも参入するようになりました。

5代目の王タルクィニウス・プリスクスは湿地帯を干拓してフォロ・ロマーノを建造して下水や街道を整備しましたが、紀元前579年に暗殺されたことで娘婿のセルウィウス・トゥリウスが王位に就きました。トゥリウスは自身の娘トゥリアとその夫ルキウス・タルクィニウスに暗殺され、紀元前535年にルキウス・タルクィニウスが王位に就きますが、傲慢な態度にローマ市民は激怒して紀元前509年にルキウス・ユニウス・ブルトゥスらによりローマから追放されました。

イタリア・ローマのフォルム・ボアリウム

フォルム・ボアリウム

テヴェレ川に建造された港から運ばれた物資が販売され、多くの牛が扱われたため牛の市場(フォルム・ボアリウム)と名付けられました。

イタリア・ローマの旅フォロ・ロマーノ

フォロ・ロマーノ

ローマ七丘の中で最も神聖なカピトリーノの丘の麓の沼地に建造された都市で、ローマの政治・経済の中心となりました。

共和政ローマ

共和政ローマでは元老院が2名の執政官(コンスル)を選び政治が行われましたが、執政官は貴族(パトリキ)から選ばれるため貴族共和政の形であり、平民(プレブス)との身分の違いが明確化されました。これに不満を持つ平民は紀元前494年に聖山事件を起こし、平民による平民会の設置と元老院や執政官の決定に拒否権がある護民官を認めさせました。紀元前450年には成文化した法律(十二表法)が制定され、時代に合わせて紀元前367年のリキニウス・セクスティウス法、紀元前287年にホルテンシウス法が制定されました。

共和政ローマは各地で戦争を行い、市民兵を基本とした重装歩兵が活躍して領土を拡大していきました。度重なる戦争は奴隷を増加させ、貧富格差の拡大により土地を失う無産市民が大量に発生しました。紀元前133~121年にグラックス兄弟が土地法の改革に乗り出しますが、元老院の妨害により失敗して内乱状態が継続しました。クラッスス、ポンペイウス、ユリウス・カエサルは三頭政治を行い元老院に対抗しました。カエサルは紀元前58~51年のガリア遠征で市民から人気を得ますが、紀元前44年に元老院に与するブルトゥスらに暗殺されました。次いでアントニウス、オクタウィアヌス、レピドゥスによる第2回三頭政治が行われますが、アントニウスとレピドゥスが没落してオクタウィアヌスが台頭することとなり、元老院から支持されたオクタウィアヌスが全権を委任され、紀元前27年に初代ローマ皇帝アウグストゥスとなりました。

イタリア・ローマのディオスクロイ

ディオスクロイ

カストールとポルックスの双子の神が騎兵となりローマを勝利に導いたことで共和政へと移行しました。

ユリウス・カエサル

ユリウス・カエサル

三頭政治やガリア遠征を行い民衆から大きな人気を得ましたが、元老院に与するブルトゥスらに暗殺されました。

元首政と呼ばれる帝政ローマ時代

紀元前27年に共和政から帝政に移行しましたが、当初は共和政の要素が強く残り元首政と呼ばれました。地中海を統一したローマは、地中海から紅海、インド洋に向かう海洋交易やシルクロード交易が盛んに行われ、交易の関税は帝国の財政を支えました。初代皇帝アウグストゥスは内政に力を入れて首都ローマをレンガから大理石に整備し、地方には属州と植民都市を置きました。2代皇帝ティベリウスは先王の政策を継承して帝政の基盤を固めて緊縮政策を行いました。3代皇帝カリグラは逆に散財して悪政を敷いたため41年に暗殺、4代皇帝クラウディウスを経て、暴君ネロが5代皇帝となりました。

ネロが悪政により自殺に追い込まれてユリウス=クラウディウス朝が終焉を迎えると、68~69年に皇帝が4人も乱立して混乱しました。69年に騎士出身のウェスパシアヌスが9代皇帝に即位すると混乱の収拾や財政の再建に努め、コロッセウムなどの公共建築を造営を始めました。10代皇帝ティトウスの時代にコロッセウムが完成しますが、79年にヴェスヴィオ火山の噴火でポンペイが埋没する災害が起こりました。7代皇帝ドミティアヌスは元老院の反対を押し切り重税を課したため96年に暗殺されました。

イタリア・ローマのパンテオン

パンテオン

紀元前25年に初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近マルクス・ウィプサニウス・アグリッパにより建造された世界最古で最大の石造りの建造物です。

イタリア・ローマの旅行や観光地、コロッセオ(フラヴィウス円形闘技場)

コロッセオ(フラヴィウス円形闘技場)

4万人もの奴隷を使い約10年の歳月をかけて完成しました。5~8万人が収容できる観客席は20分以上直射日光が当たらない設計でした。

五賢帝時代

ドミティアヌスの暗殺により皇帝に即位したネルウァからトラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスまで五賢帝時代と呼ばれる安定した時代を迎えます。トラヤヌスは領土を拡大してローマ最大版図として、建設や娯楽を展開しながら孤児への救済活動を行いました。ハドリアヌスは法制度の体系化のほか、ギリシャ・アテネの公共建築物の建造などを行いアテネの復興に力を入れました。

アントニヌス・ピウスの治世下では大きな戦争も無く安定した時代を迎えましたが、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの頃には、東方のパルティアや北方のゲルマン人の侵攻が激しくなりました。マルクス・アウレリウス・アントニヌスはゲルマン系マルコマンニ族との戦争の最中に亡くなりました。後継者コンモドゥスは早期にマルコマンニ戦争を終わらせますが、遊興にふけり信頼を失うことで192年に暗殺されました。

ハドリアヌス

ハドリアヌス

元老院や市民の反発を抑えてトラヤヌスが拡大しすぎた領土を縮小して国境を巡視してまわり平和の安定化を図りました。

イタリア・ローマのハドリアヌス廟(サンタンジェロ城)

ハドリアヌス廟(サンタンジェロ城)

ヴェスヴィオ火山の灰が混ぜられた古代ローマのコンクリートは耐久性が高く、2000年以上が経過しても原型を留めています。

専制君主政とキリスト教の国教化

コンモドゥス暗殺により各地に皇帝を称する者が多く現れましたが、その中で台頭したアフリカ出身のセプスティウス=セウェルスが193年に皇帝に即位しました。この子カラカラが大浴場を建設しています。やがてセウェルス=アレクサンデルが235年に暗殺されると、軍人のマクシミアヌスが皇帝に即位して軍人皇帝が50年ほど続きました。284年に皇帝に即位したディオクレティアヌスは、皇帝を神として崇拝することを強要し、同時に帝国の四帝分治制を導入して帝国支配を維持しようとしました。

312年にローマ帝国の統一を回復した皇帝コンスタンティヌスは、313年にミラノ勅令を出してローマ帝国におけるキリスト教を公認し、325年にニケーア公会議を招集してアタナシウス派を正統としてキリスト教の教義の統一が図られました。330年には都をローマからコンスタンティノープルに移しました。392年に皇帝テオドシウスがアタナシウス派のキリスト教を国教化し他の宗教を禁止しました。テオドシウスが亡くなると、395年にローマ帝国は東西に分裂しますが、西ローマ帝国はその後もゲルマン人の侵攻を受けて衰え、476年にオドアケルにより西ローマ帝国は滅亡しました。

イタリア・ローマのフォロ・ロマーノのセヴェルスの凱旋門

セヴェルスの凱旋門

皇帝セプティミウス・セウェルスが東方のパルティア戦争での勝利を記念して203年に建てた大理石の門です。

イタリア・ローマの旅行や観光地、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂

サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂

352年の雪の奇跡により建てられた教会で、1348年の大地震を耐えてローマのバジリカ様式の聖堂では唯一原型を残しています。

イタリア・ローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会

サンタ・マリア・イン・コスメディン教会

6世紀に建てられた教会で、8世紀に教皇ハドリアヌス1世が迫害から逃れてきたギリシャ人修道士たちに授けられてギリシャ系の教会となりました。

ローマ・カトリックとローマ皇帝

西ローマ帝国が滅亡して皇帝位が返上されると、ローマ教会は後ろ盾を失う形になりました。452年にゲルマン系フン族のアッティラ王がローマに攻めると、ローマ教皇レオ1世はアッティラ王と会談して、伝承では聖なる力でローマを守りました。ペトロを祖とするローマ教皇は、民衆が皇帝よりも支持される基盤が作られました。496年にフランク族クロ―ヴィスがアタナシウス派キリスト教に改宗すると、ローマ教会はクロ―ヴィスを支持しました。この頃のローマはオドアケルを退けた東ゴート王国や東ローマ帝国に支配される一都市であり、ローマ教皇はこれに不満を抱いていました。

751年にランゴバルド王国が東ローマ帝国領ラヴェンナを占領すると、これに脅威を覚えたローマ教皇はフランク王国に救援を求めました。フランク国王ピピン3世(小ピピン)は754年にランゴバルド王国を撃破し、756年に奪取した土地をローマ教皇に寄進(ピピンの寄進)しました。ローマ教会は、かつてのローマ皇帝コンスタンティヌスがローマ教皇に西方の支配権を委ねたとするコンスタンティヌスの寄進状を掲げ、この行為を正当化するとともに、800年にはフランク国王カール大帝に西ローマ皇帝位を与えました。皇帝位はカール大帝が死去すると一反ローマ教皇に返上され、ローマ教皇が新たな皇帝に戴冠する形となりました。フランク王国から東フランク国王や神聖ローマ帝国に変化してもこの体制は変わらず、ローマ教皇は皇帝よりも優越的に君臨し、寄進されたローマ教皇領はイタリア統一後の1870年まで続きました。

ピピン3世

ピピン3世

ランゴバルド王国を撃破し、756年に奪取した土地をローマ教皇に寄進(ピピンの寄進)しました。

カール大帝

カール大帝

フランク国王で、コンスタンティヌスの寄進状を拠り所として、800年にローマ教皇から西ローマ皇帝位を与えられました。

ルネサンスとバロックの都

銀行家の大富豪メディチ家によりフィレンツェでルネサンスが隆盛すると、ローマ教皇ニコラウス5世、アレクサンドル6世、ユリウス2世、レオ10世などがミケランジェロなどの芸術家を庇護してローマは芸術の都として花開きました。しかし、神聖ローマ帝国ハプスブルク家が台頭したことに脅威を覚えたローマ教皇は、北部イタリア諸国とフランスが結成した反ハプスブルク連合同盟(コニャック同盟)に加わり、1527年にローマは神聖ローマ皇帝カール5世に攻められました。ローマは、のちにローマの劫掠と呼ばれる略奪と殺戮により灰燼に帰してイタリア=ルネサンスは終わりを迎えました。

16世紀後半になると教皇ウルバヌス8世やイノケンティウス10世などは、バロックの巨匠ベルニーニに依頼して町を整備していきました。1640年にウルバヌス8世はトレヴィの泉の改修を依頼すると、太陽光を取り込むために西向きから南向きに泉を変えて水盤を大きな楕円形にしました。ウルバヌス8世の死により改修は頓挫しましたが、1762年に二コラ・サルヴィが完成させています。また1648年には教皇イノケンティウス10世の依頼により、ナヴォーナ広場にある四大河の噴水をベルニーニが手掛けて1648年に完成しています。ベルニーニが手掛けた建造物が残るローマは、バロックの都と呼ばれるようになりました。

イタリア・ローマの旅行や観光地、カンピドーリョ広場

カンピドーリオ広場

教皇パウロ3世の依頼で、ルネサンスの巨匠ミケランジェロが手掛けて廃墟と化していたカピトリーノの丘に広場が造営されました。

イタリア・ローマのトレヴィの泉

トレヴィの泉

バロックの巨匠ベルニーニが手掛けましたが、ウルバヌス8世の死により改修は頓挫して、のちに二コラ・サルヴィが完成させています。

イタリア統一

1789年にフランス革命が起こると、イタリアでも国家の統一運動(リソルジメント)が叫ばれるようになりました。1859年にサルデーニャ王国がイタリア北部からイタリア半島に攻め込み、1860年からガルバルディ率いる千人隊がイタリア南部から勢力を広げました。やがてガルバルディがサルデーニャ王国に無条件で領土を引き渡すと1861年にイタリア王国が成立し、サルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が初代国王となりました。

バチカンの独立

イタリア王国が成立して1871年にはローマが首都となりますが、ローマ教皇領の扱いが問題となりました。ローマ教皇ピウス9世はこの状況について自らをバチカンの囚人と表現しました。首相ムッソリーニは1929年に教皇ピウス11世とラテラノ条約を結び、バチカンを独立国としました。かつて広大なローマ教皇領は現在は世界で最も小さな国となりました。

ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世

ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世

サルデーニャ国王としてイタリアを統一して、初代イタリア国王となりました。

ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世

初代イタリア国王の棺桶

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の墓はパンテオンの中に置かれました。

イタリア・ローマのヴェネチア広場ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂

初代イタリア国王の業績を記念して1911年にヴェネチア広場に記念堂が建てられました。幅135メートル、高さは70メートルある建造物です。

ムッソリーニ

ムッソリーニ

教皇ピウス11世とラテラノ条約を結びバチカンを独立国にしました。第二次大戦を引き起こして失脚しました。