ローマで起きた奇跡
ローマ教皇が住まいとするカトリックの総本山であるローマには、雪の聖母マリアの奇跡と大天使ミカエルの降臨によるペスト終息の軌跡が残されています。教皇と貴族の夫人の夢に現れた聖母マリアは、真夏の8月に雪が降ることを予言して教会設立を求めました。翌日にエスクイリーノの丘には雪が降り、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂が設立されました。6世紀にローマでペストが流行すると、大天使ミカエルがサンタンジェロ城に降臨して、剣を抜いてペストを追い払いました。
雪の聖母の奇跡
かつてローマにジョバンニという貴族の夫婦がいました。ジョバンニは子供がいないため、すべての財産を聖母マリアに捧げる誓いをしました。352年8月4日にジョバンニの夢に聖母マリアが現れ、明日雪が積もる場所に教会を建てるよう告げました。翌日にジョバーニは教皇リベリウスに赴き夢のことを伝えると、教皇も同じ夢を見たと言います。8月の夏の盛りでしたが、エスクイリーノの丘に雪が降る奇跡が起こりました。こうしてエスクイリーノの丘には、偉大なる聖母マリアに捧げられた聖堂を意味するサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂が建設されました。
教皇リベリウス
貴族の妻ジョバンニとともに夢に聖母マリアが現れて降雪を予言して教会設立を求めました。降雪したところには教会が設立されました。
雪の聖母の奇跡
降雪の歴史的記録は残されていませんが、雪の聖母の奇跡として語り継がれるようになり、8月5日は祝いの行事が行われています。
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂は、431年のエフェソス公会議で聖母崇拝が認められたことを受け、教皇シクストゥス3世によりエスクイリーノの丘の古代キュベレ神の神殿と同じ場所に建てられました。ローマ教皇が建築させたローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の聖堂)の一つに数えられています。
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
数回に渡る改修と1348年の地震に伴う崩壊の危機を乗り越え、ローマのバジリカ様式の聖堂では唯一原型を残している貴重な建造物です。
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
大聖堂の前には、フォロ・ロマーノに建てられていた4世紀のマクセンティウス帝のバジリカから移設された巨大なオベリスクが聳えています。
システィーナ礼拝堂
教皇シクストゥス5世の依頼により1585~90年にドメニコ・フォンターナが建築した礼拝堂です。
パオリーナ礼拝堂
教皇パウルス5世の依頼でフラミニオ・ポンツィオが設計した礼拝堂で、正面には聖母子画とスティファノ・マデルノ作の雪の奇跡のモニュメントがあります。
聖母戴冠
ドーム中央には1295年にヤコポ・トリーティが製作した聖母戴冠のモザイク画があり、その両側に聖母マリアとキリストのエピソードが描かれています。
聖遺物箱
主祭壇の地下にはキリストが生まれてから揺りかごで寝かされていた時に使われていた馬小屋の飼い葉桶の木片が納められた箱が安置しています。
アビニョン捕囚
1309年にフランス王フィリップ4世が教皇クレメンス5世に圧力をかけ、南フランスのアヴィニヨンに教皇庁を移させ、1377年までのおよそ70年間にわたり教皇のアヴィニヨン捕囚が起きました。これにより教皇の権威は落ちましたが、1372年に教皇グレゴリオス11世がフランスの反対を押し切りローマに帰還することを宣言しました。
教皇宮殿としての使用
1377年に教皇グレゴリオス11世はローマに戻りますが、ラテラノ大聖堂が荒れ果てていたため、バチカンに教皇宮殿が建築されるまでサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂を教皇宮殿として使用しました。グレゴリオス11世はローマに帰還して間もなく亡くなりウルバヌス6世が教皇位に就きますが、これに反対したフランスはアヴィニョンに対立教皇を置いて教会大分裂(シスマ)となりました。
大天使ミカエルの降臨とペストの収束
6世紀に猛威を振るい世界人口を半分にした言われるペスト(黒死病)は、542年にローマに上陸してローマで流行しました。ローマ教皇グレゴリウス1世は、590年にペストの収束を祈念するためにサン・ピエトロ寺院に向かう途中、サンタンジェロ城の頂部に大天使ミカエルが降り立ち、剣を抜いてペストを追い払う姿を見ました。この奇跡により聖天使(サン・アンジェロ)からサンタンジェロ城と呼ばれるようになりました。
大天使ミカエル像
初代の大天使ミカエル像で、ラファエロ・ダ・モンテルーポが手掛けました。現在はサンタンジェロ城の天使の中庭にあります。
大天使ミカエル像
現在のミカエル像は、ペーター・アントン・フェルシャフェルトの製作により1752年に設置されました。
ハドリアヌス廟
サンタンジェロ城はもともとローマ帝国の五賢帝のひとりハドリアヌス帝の霊廟として建設されました。皇帝の霊廟はこれまで初代皇帝アウグストゥスの霊廟が使われましたが、手狭であることからハドリアヌスは自らの霊廟として135年に建設を開始し、アントニヌス・ピウス治世時代の139年に完成しました。ローマ皇帝の霊廟として3世紀初頭のカラカラ帝まで使用されています。
ハドリアヌス帝
元老院や市民の反発を抑えてトラヤヌスが拡大しすぎた領土を縮小して国境を巡視してまわり平和の安定化を図りました。
ハドリアヌス廟
ヴェスヴィオ火山の灰が混ぜられた古代ローマのコンクリートは耐久性が高く、2000年以上が経過しても原型を留めています。
教皇の避難所
サンタンジェロ城は、14世紀以降にサン・ピエトロ大聖堂とボルゴ回廊と呼ばれる地下通路で繋がり、有事の際に避難する場所として要塞化防備を強化しました。サンタンジェロ城は監獄としても使われ、裁判の間や監獄の遺構が残されています。14世紀から16世紀にイタリア=ルネサンスが盛んになると、ローマ教皇のニコラウス5世、アレクサンドル6世、ユリウス2世、レオ10世などが芸術家を庇護して、サンタンジェロ城を宮殿のように改修しています。
サンタンジェロ城
1527年のコニャック同盟戦争では、バチカンが攻撃されたことを受けて教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込みました。
サンタンジェロ橋の回廊
グルテスク様式(洞窟の意味)の装飾が施され、まるで宮殿のようなパウロ3世の図書室や書斎、寝室なども残されています。