歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

バロックの巨匠ベルニーニ建築

イタリア・ローマのトレヴィの泉

芸術の都としてルネサンスが花開いていたローマは、1527年にローマの劫掠と呼ばれる略奪と殺戮で灰燼に帰し、イタリア=ルネサンスが終焉を迎えました。教皇はローマを復興させるため町づくりで、バロックの巨匠ベルニーニに依頼しました。ベルニーニはローマ各所の建造物を手掛け、ローマはバロックの都と呼ばれるようになりました。

ルネサンスからバロックへ

15世紀にフィレンツェの銀行家メディチ家は、ボッティチェリ、ミケランジェロなど多数の芸術家を庇護してルネサンスの震源地となりました。ローマ教皇ニコラウス5世、アレクサンドル6世、ユリウス2世、レオ10世なども影響を受け、ミケランジェロなどの芸術家を庇護してローマは芸術の都として花開きました。しかし、神聖ローマ帝国ハプスブルク家が台頭したことに脅威を覚えたメディチ家出身の教皇クレメンス7世は、北部イタリア諸国とフランスが結成した反ハプスブルク連合同盟(コニャック同盟)に加わりました。

ローマの劫掠

教皇クレメンス7世が反旗を翻したことを受け、神聖ローマ皇帝カール5世は1527年にローマに進軍しました。皇帝軍の攻撃によりローマは陥落し、教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に幽閉されました。ローマ攻略のうちに皇帝軍指揮官ブルボン将軍が戦死すると、暴徒と化した皇帝軍は半年にわたりローマ市街で略奪と殺戮を繰り返してローマは灰燼と化しました。この事件はローマの劫掠と呼ばれ、これによりフィレンツェではメディチ家が追い出されて、華やかなイタリア=ルネサンスは終焉を迎えました。

ミケランジェロ

ミケランジェロ

イタリア・カプレーゼに生まれて神の如きと言われたイタリア=ルネサンスの巨匠です。

ローマの劫掠

ローマの劫掠

ローマは壊滅的な打撃を受けてルネサンスのパトロンである大富豪メディチ家は追放されました。

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ

1598年にナポリで生まれたバロックの巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、彫刻家としてクレメンス7世の跡を継いだウルバヌス8世に見込まれ、ウルバヌス8世の依頼によりサン・ピエトロ大聖堂の大天蓋(バルダッキーノ)やサンピエトロ広場を製作しました。ベルニーニ建築は華美な装飾のため、イノケンティウス10世に嫌われましたが、やがて理解されると後の教皇アレクサンドル7世のもとで数々の製作を行いローマの再建のために多くの彫刻を製作しました。教皇ウルバヌス8世は

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ

ベルニーニ

バロックの巨匠で、ローマ教皇の依頼によりローマ再建のために多くの彫刻を制作し、ローマをバロックの都にしました。

教皇ウルバヌス8世

教皇ウルバヌス8世

ローマ再建にベルニーニを抜擢し、「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と称賛しました。

サン・ピエトロ大聖堂主祭壇とバチカン広場

バチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂は、ルネサンスの巨匠ミケランジェロがドームなどを製作して建造されました。外観が出来上がると、ウルバヌス8世は内部の装飾の製作をベルニーニに依頼しました。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の中心である主祭壇の装飾は、ベルニーニが1624~33年に手掛けています。1628年からはいびつな形をしたバチカン広場の造営を11年かけて行いました。

バチカンのサン・ピエトロ大聖堂

サン・ピエトロ大聖堂主祭壇

ウルバヌス8世に依頼された主祭壇(バルダッキーノ)は9年間かけて製作され、聖ペトロの墓のうえに建てられました。

バチカンのサンピエトロ広場

サンピエトロ広場

バチカンを目指した巡礼者が、サン・ピエトロ大聖堂を目の当たりにして感動を覚えるように、開放的に開けたバチカン広場を設計しました。

トレヴィの泉

トレヴィの泉はヴィルゴ水道(乙女の水道)の終端施設として、初代皇帝アウグストゥスにより建造された簡素な泉でした。1640年にウルバヌス8世はベルニーニにトレヴィの泉の改修を依頼し、ベルニーニは太陽光を取り込むために西向きから南向きに泉を変えて大きな楕円形の水盤を整備しました。ウルバヌス8世の死により改修は頓挫しましたが、教皇クレメンス12世の命を受けた二コラ・サルヴィの設計により1762年に現在の泉になりました。

イタリア・ローマのトレヴィの泉

トレヴィの泉

中央に海神ネプチューンが海馬で凱旋している様子が彫られています。海馬は左の暴れ馬と右の穏やかな馬があり、荒れている海と穏やかな海を示しています。

イタリア・ローマのトレヴィの泉

トレヴィの泉

ネプチューンの右には健康と安全の女神サルース、左には豊穣の女神ケレースの像が設置され、この彫像の下から大量の水が流れ込みます。

イタリア・ローマのトレヴィの泉

トレヴィの泉

トレヴィの泉の水を飲むと永遠に別れることは無いと言われ、戦争に出かける恋人に飲ませて、飲み干したコップを割ることで未来の祝福を願いました。

イタリア・ローマのトレヴィの泉

トレヴィの泉

近年ではトレヴィの泉にコインを後ろ向きに1枚投げると再びローマに戻ることができ、2枚投げると好きな人と恋愛が叶うと言われます。

ナヴォーナ広場の噴水

ナヴォーナ広場は、1世紀のドミティアヌス競技場の跡地に造られた南北に長い広場です。教皇イノケンティウス10世はナヴォーナ広場に面して宮殿を保有していたため、ナヴォーナ広場に噴水を建造するようデッラ・ポルタに依頼しました。デッラ・ポルタはネプチューンの噴水とムーア人の噴水を建造しましたが、イノケンティウス10世はこれに満足できませんでした。ベルニーニは1648年にガンジス川、ドナウ川、ラプラタ川、ナイル川の四大河を意味する4つの彫像と、マクセンティウス競技場から移設されたエジプトのオベリスクから構成される四大河の噴水を製作しました。イノケンティウス10世は大変満足して、ネプチューンの噴水を拡張してベルニーニに彫像の製作を依頼しました。ベルニーニは1878年頃にネプチューン像を中心にマスケローネ、馬、ブッティ、ネレーイディの5つの彫像を製作しました。

イタリア・ローマのナヴォーナ広場

ナヴォーナ広場

1世紀のドミティアヌス競技場の跡地に造られた南北に長い広場で、ベルニーニが手掛けた四大河の噴水が置かれています。

イタリア・ローマの旅行や観光地、ナヴォーナ広場_四大河の噴水

四大河の噴水

ガンジス川、ドナウ川、ラプラタ川、ナイル川の四大河を意味する4つの彫像と、エジプトのオベリスクから構成される四大河の噴水を製作しました。

スペイン広場のバルカッチャの噴水

スペイン広場は、スペイン大使館が置かれたため名付けられました。135段のトリニタ・デイ・モンティ階段(スペイン階段)の上にはフランス王ルイ12世の命によりフランチェスコ・ディ・サンクティスが設計して1725年に建てられたトリニタ・デイ・モンティ教会があります。トリニタ・デイ・モンティ階段の麓にはベルニーニとその息子のジャンロレンツォ・ベルニーニが手掛けたバルカッチャの噴水があります。

イタリア・ローマのサンタンジェロ城

スペイン広場

映画ローマの休日の撮影地として有名な広場で、階段の上にはルイ12世の命で建造されたトリニタ・デイ・モンティ教会があります。

イタリア・ローマのサンタンジェロ城

バルカッチャの噴水

小舟という意味がある噴水で、ベルニーニが製作して1629年に完成しました。噴水の水は飲むことができます。

サンタンジェロ橋の十体の天使像

ベルニーニは1667年にクレメンス9世の依頼により、サンタンジェロ城の入口にあたるサンタンジェロ橋の10体の天使像の彫像を手掛けました。10体の天使像は巡礼者がキリストの受難を認識するため、天使がそれぞれキリストの受難の象徴を持ちます。ベルニーニは10体のうち2体を製作しましたが、教皇クレメンス9世は彫像の美しさに驚き、この2体の彫像を手元に残してコピーをサンタンジェロ橋に設置しました。

イタリア・ローマのサンタンジェロ城

サンタンジェロ城

大天使ミカエルが降臨してペストを打ち払った伝承にならい、橋の上にはベルニーニらが製作した十体の天使が並びます。

イタリア・ローマのサンタンジェロ城

サンタンジェロの天使

ベルニーニは10体のうち2体を製作しましたが、クレメンス9世はその2体の彫像の美しさに驚き、2体の彫像は手元に残しました。