グラーツ
グラーツはオーストリア第2の都市でシュタイアーマルク州の州都でスラブ語のグラデツ(小さな城)に由来して名付けられました。ゲルマン文化圏最南端の都市でありバルカン半島とイタリアの香りが漂います。1999にグラーツ旧市街がグラーツ市歴史地区として世界遺産に登録されています。
概要
- 面積
- 127.6km2
- 標高
- 353m
- 人口
- 28.39万 (2017年)
- 地図
歴史
グラーツはハプスブルク家の支配下で交易都市として発展しました。分家に当たるレオポルト家から神聖ローマ皇帝が誕生して首都となり16世紀に拡大するオスマン帝国に対する防衛を担いました。シュロスベルクの丘に造られたグラーツ城はナポレオンも落とすことができない難攻不落の城でした。グラーツ旧市街は1999年に世界遺産に登録され、2010年にエッゲンベルク城が追加登録されました。
ローマ帝国の支配
グラーツがあるシュタイアーマルクはイリュリア人が住んでいたところにケルト人が住むようになりノリクム王国ができました。紀元前15年にノリクム王国はローマ帝国に征服されてノリクム属州としました。ゲルマン人の大移動により西ローマ帝国の統治を離れると626年にスラヴ人によるカランタニア公国が成立しました。
グラーツの誕生
カランタニア公国は長くは続きませんでしたが、マジャール人の侵攻を防ぐためにシュロスベルクの丘に砦を建設しました。スラヴ人は小さな砦をグラデツと呼んだため、町はグラーツと呼ばれるようになりました。797年にカール大帝が征服してフランク王国の支配下となりキリスト教を受入れるようになりました。
グラーツ市街
赤茶けた家屋の屋根が特徴的です。
シュロスベルクの丘
小さな砦はグラーツの名前の由来になりました。
ハプスブルク家の支配
フランク王国が分裂した東フランク王国を母体として神聖ローマ帝国が誕生しますが、1250年代から皇帝不在の大空位時代を迎えました。選帝侯たちは影響力が小さいスイスの小領主であるハプスブルク家ルドルフ1世を1273年に皇帝に選出すると、ルドルフ1世はボヘミア王オタカルを破りグラーツを含むオーストリアを支配下に置いて本拠地をウィーンとしました。
神聖ローマ帝国の首都
14世紀にはハプスブルク家の分家に当たるレオポルト家がグラーツを居住地としました。1439年に本家アルブレヒト5世が戦没したことで、レオポルト家のフリードリヒ3世が1452年に神聖ローマ皇帝に戴冠されました。これによりグラーツは神聖ローマ帝国の首都となりました。
ルドルフ1世
神聖ローマ帝国皇帝になりました。
フリードリヒ3世
神聖ローマ皇帝となりグラーツが首都になりました。
グラーツの繁栄
グラーツの町は発展していきますが、1453年にオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼすとオスマン帝国の脅威にさらされるようになります。フリードリヒ3世の息子マクシミリアン1世は、各地の名家と結婚政策を進めてブルゴーニュ、スペイン、ポルトガル、ハンガリー、ボヘミアなどを手に入れますが、南東部に位置するグラーツは1480年にオスマン帝国から侵攻されました。ハプスブルグ家はオスマン帝国を退けましたが、これを契機にシュロスベルクの砦の補強をはじめとして都市の防衛機能が強化されました。
グラーツ宮
フリードリヒ3世はシュロスベルクの丘にグラーツ城を築いて麓にグラーツ宮(グラーツ・ブルク)を建てました。
グラーツ大聖堂
宮廷聖堂としてゴシック様式の聖エギディウス教会(グラーツ大聖堂)が1438年から1464年に建設されて王宮と繋げられました。
ウィーン遷都とグラーツの衰退
1517年にマルティン・ルターによる宗教改革が起こると、1585年にはグラーツ大学を開設しプロテスタントを追放しました。熱狂的なカトリック信者であるボヘミア(ベーメン)王フィルディナンド2世はプロテスタントを弾圧したため1618年にベーメン反乱が起こり三十年戦争に発展しました。フィルディナンド2世は1619年に神聖ローマ皇帝となり宮廷をプラハからウィーンへ遷都したことでグラーツは陰りを見せます。
エッゲンベルク城
内務長官のハンス・ウルリヒ・フォン・エッゲンベルクが1625年から1635年に建設し、1642年に世界最大規模の武器庫を建造しました。
フィルディナンド2世霊廟
1633年にはフィルディナンド2世の命によりマニエリスム様式の霊廟(マウソレウム)が建てられました。
ナポレオンの侵攻
フランスでナポレオンが台頭してくると、ナポレオンはヨーロッパ全土で戦いを繰り広げました。1797年にナポレオン率いるフランス軍は戦略的に重要なグラーツに侵攻して町を占領しました。それでもシュロスベルクの丘に築かれたグラーツ城はナポレオン軍の攻撃に耐えて陥落することはありませんでした。
シュロスベルクの丘
フランスに破れたオーストリアは1809年にシェーンブルンの和約を結びフランスの衛星国になると、この年にナポレオンは難攻不落のグラーツ城を破却するよう指示して城壁や宮殿が破壊されました。グラーツ市民はシンボルであるシュロスベルクの丘の時計塔を巨額の金額で買い取り1712年から時を刻み続けています。
シュロスベルクの丘
ナポレオンの攻撃にも耐え抜きました。
シュロスベルクの丘
グラーツのシンボルとして市民が買い取りました。
ヨハン大公とグラーツの発展
女帝マリア・テレジアの三男で後の皇帝レオポルト2世の子ヨハン・バプティストはヨハン大公として親しまれています。政争や戦争を目の当たりにしたヨハン大公はグラーツのシュタイアーマルクに籠るようになりました。ヨハン大公はグラーツを拠点にワインなど農業の振興や鉄道の敷設などを行い、病院やグラーツ工科大学などの学校を建設して地域経済の向上に貢献しました。ヨハン大公が1811年に国立博物館ヨアネウムを創設してシュロスベルクを公園として整備しました。
ヨハン大公
トプリッツ湖畔で郵便局長の娘アンナと出会い、皇族や貴族らの猛反発を抑えて皇位継承権を返上して貴賤結婚しました。
グラーツ市庁舎
19世紀に建てられた市庁舎などが現在も残り、こうした貢献によりヨハン大公は市民からシュタイアーマルクのプリンスと讃えられました。