ザルツブルク
ザルツブルクは東アルプス山脈を望むドイツと国境を接するオーストリアの都市です。街はザルツァッハ川によって二分され、左岸には中世やバロック様式の建物がある歩行天国のアルトシュタット(旧市街)があり、右岸には19世紀のノイシュタット(新市街)があります。
概要
- 面積
- 65.68km2
- 標高
- 424m
- 人口
- 15.24万 (2017年)
- 地図
歴史
ザルツブルクは古くから交通の要衝であり岩塩の有名な採掘地でした。宗教都市として発展してイタリアの都市に準えられ、北のローマや北のフィレンツェと呼ばれることもありました。こうして発展したザルツブルク旧市街はザルツブルク市街の歴史地区として1996年に世界遺産に登録されました。
ザルツブルクの形成
ザルツブルクはザルツァッハ渓谷にありイタリアやドイツなどを結ぶ交通の要衝でした。紀元前にはケルト人の集落があり、ローマ時代はユヴァウムと呼ばれました。この地は古くから岩塩の豊富な採掘地であり、都市は岩塩を由来としてザルツ(塩)+ブルク(砦)と名付けられました。
ザルツブルクの誕生
696年頃にバイエルン公セオドは、ザルツブルクに聖ルペルトゥスを派遣して聖ペーター修道院を建ててローマ・カトリック宣教の拠点としました。714年頃には女子修道院であるノンベルク修道院が建てられ、774年に司教区聖堂であるザルツブルク大聖堂が建設されて宗教都市となりました。
ザルツブルク市街
町の中央をザルツァハ川が流れます。
ザルツブルク市街
町を見下ろすように城が建造されています。
カノッサの屈辱
カノッサの屈辱は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が破門を解くために教皇に許しを請いた事件です。1075年にローマ教皇グレゴリウス7世は、皇帝が聖職者を任命する聖職者叙任権を否定したため神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はこれに強く反発しました。ハインリヒ4世はグレゴリウス7世の教皇の廃位を求め、教皇グレゴリウス7世はハインリヒ4世を破門することを決めました。ハインリヒ4世は破門により帝国内の諸侯を統制できなくなるため、1077年に厳冬のアルプスを越えてグレゴリウス7世が滞在するカノッサ城に訪れました。ハインリヒ4世はなかなか会うことができず、3日も雪の中で修道衣と素足で立ち尽くして破門を解いてもらいました。
ハインリヒ4世は破門を解かれましたが、ドイツ諸侯はハインリヒ4世の義弟のシュヴァーベン公ルドルフを国王に擁立したためドイツも分裂して両派の戦いとなりました。ハインリヒ4世は戦いを優位に進め1080年にグレゴリウス7世が再び破門を宣言しました。ハインリヒ4世はグレゴリウス7世の教皇廃位を決議してラヴェンナ大司教クレメンス3世を教皇に擁立して、1082年には軍隊を要してローマに遠征してグレゴリウスを追放しました。これによりローマ教皇はグレゴリウス以下の教皇派とクレメンス3世以下の皇帝派が同時に存在する分裂状態となりました。
カノッサ城
皇帝が教皇に許しを請うために訪れました。
ホーエンザルツブルク城
カノッサの屈辱に備えるために建造されました。
ホーエンザルツブルク城
ホーエンザルツブルク城は、教皇派である大司教ゲプハルト・フォン・ヘルフェンシュタイン1世がカノッサの屈辱の報復を恐れて1077年からメンヒスベルクの丘に建造を始めた城塞です。大司教が変わるたびに増築が繰り返されて1100年頃のマイセン辺境伯コンラート1世の頃にほぼ現在の姿になりました。ホーエンザルツブルク城は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によるザルツブルク焼討ちで焼失を免れ、1524年にドイツ農民戦争でも陥落したことが無い難攻不落の城となりました。
ホーエンザルツブルク城は中央ヨーロッパ最大の城塞となり、カトリックとプロテスタントの宗教戦争である三十年戦争ではスウェーデン国王グスタフ・アドルフ麾下の猛将たちはホーエンザルツブルク城をひと目見るなり撤収したと伝わります。しかし、フランスのナポレオンがナポレオン戦争で侵攻すると、ホーエンザルツブルク城は戦うことなく開城しました。フランス占領下の1816年にはザルツブルク大司教は本来の聖職者に戻りました。
ホーエンザルツブルク城
円筒形のレック塔には大砲が置かれていました。
ホーエンザルツブルク城
城内には穀物貯蔵庫と貯水槽が整備されていました。
ザルツブルク大聖堂の再建
ザルツブルクの司教たちはバイエルン公より岩塩の交易から得られる利益の一部を与えられ莫大な富を得ていたため、8世紀に建てられた大聖堂を贅を尽くした姿に再建しました。1587年に大司教の座に就いたディートリヒ・フォン・ライテナウはイタリア・ルネサンスのパトロンであるエディチ家に依頼してイタリア人建築家ヴィンセント・スカッティを招きバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にも匹敵する規模の大聖堂の建設を目指しました。
1611年ライテナウが失脚してホーエンザルツブルク城に幽閉されると、後任の司教ホーエネムス伯マルクス・ジッティクスが規模を縮小して大聖堂の建造を進めました。イタリア出身のティーノ・ソラーリオが手掛けた大聖堂は、イタリアバロック様式を取り入れたヨーロッパ有数の美しさを誇る教会として1628年に完成しました。
ザルツブルク大聖堂
映画『サウンド・オブ・ミュージック』でも登場します。
ザルツブルク大聖堂
1628年に完成したバロック様式を取り入れた教会です。
音楽の都ザルツブルク
ザルツブルクは音楽の都と呼ばれます。その最大の理由は、偉大な音楽家であるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが生まれたことに由来します。モーツァルトは1756年に生まれて25歳になるまでザルツブルクで暮らしていました。4歳でピアノを習い始めて5歳で作曲も始めたため神童と呼ばれ、ザルツブルク大聖堂でオルガン奏者を務めました。
モーツァルトは14歳の時にローマ法王から芸術家として最高の名誉である黄金拍車勲章を受章し、35年の生涯でフィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニなどのオペラの名曲などを600曲以上を作りました。最後の作曲は1791年に魔笛を作曲しているときに「まるで自分の鎮魂曲を作っているようだ」と話していました。魔笛は未完成のままでしたが、弟子のジュスマイヤーが遺志を引継ぎ完成させました。
モーツァルト
モーツァルト広場に銅像があります。
モーツァルト生家
ゲトライデガッセにあるアパートです。