チャンパ王国とミーソン遺跡

2世紀終わりから15世紀にかけて、ベトナム中部から南部にかけて統治していたチャンパ王国は、海上交易により繁栄を極めました。チャンパ王国の聖域であるミーソン遺跡は、ヒンドゥー教の影響を強く受けた宗教遺跡で、ベトナム戦争で多くの遺跡が破壊されましたが、1999年にユネスコの世界文化遺産として認定されて修復活動が続けられています。
チャンパ王国
チャンパ王国は、ベトナム中部に居住したチャム人が192年に後漢から独立して建国しました。4世紀ころにインドとの関係が強くなりインド文化を積極的に取り入れました。このため、中国の史料では林邑や占城と表現されていますが、自国ではサンスクリット語のチャンパと自称しています。

祠堂
チャンパ王国で独自に発達した高度な建築技術で13世紀に建造された礼拝堂で、現在は展示場として使われています。

シヴァ神のレリーフ
チャム族が信仰するヒンドゥー教の神であるシヴァ神と初代チャンパ王が同一視されており、インド文化の影響を強く受けていました。
チャンパ王国の文化

リンガ
男性器を模したもので、単体で意味を成すものでは無く、女性器ヨニと組み合わせて意味を成しました。

ヨニ
女性器を模したもので、これに男性器リンガを立てて子孫繁栄を願いました。

石碑
いくつか残されている石碑に古代チャンパ文字がはっきりと刻まれ、古代チャム文明を今も静かに伝えています。

チャンパ文字
未だに石碑に書かれている内容は解明されていないようで、ミーソン聖域が謎深い遺跡である理由の一つと考えられます。
チャンパ王国の滅亡
中国南部、インド、クメール、ジャワの海洋交易の中継地点として繁栄しましたが、アンコール朝クメール王国との争いが絶えず、10世紀後半にはしばしばその支配を受けました。また、ベトナム北部の大越国と争うことになり、チャンパ王国は大越に敗れて1471年に首都ヴィジャヤを占領されて滅びました。

ミーソン遺跡
チャンパ王国の聖域です。

チャンパの祭り
ミーソン遺跡で祭りが行われています。
ミーソン遺跡の発見
ミーソン遺跡はチャンパ王国の聖域で、遺跡の四方を山に囲まれている閑静な場所にあります。4世紀後半にチャンパ王国の初代国王と一体化したシヴァ神が祀られた聖域でしたが、チャンパ王国が滅亡してから忘れ去られていました。フランス統治時代の1885年にフランス人研究家アンリ・パルマンティエが発見し、ミーソン遺跡の多くの美術品は盗掘されて一部はフランスの博物館などに展示されています。

ミーソン遺跡
ダナンやホイアンから南西40キロの距離にあるため、アクセスにはタクシーで1時間ほどかかります。

ミーソン遺跡
遺跡はA~Fのグループ分けられ、遺跡の内部を川が流れています。
ベトナム戦争で崩壊
ミーソン遺跡はインドシナ戦争時の盗掘や盗難のほか、ベトナム戦争時の解放軍の基地として使われたことでアメリカ軍の空爆により崩落しました。多くの美術品が失われ、ヒンドゥー教の影響を色濃く受けたレリーフなども顔が残されていません。不完全な状態のチャンパ美術品は、時代の重みを今に伝えてくれています。

グループBCD
かつて木材で神殿が建設されていましたが、火災による崩壊で7世紀~13世紀にレンガで造り替えられました。

グループBCD
建物は焼成レンガが隙間なく積み上げられ、セメントや漆喰などの接着剤を使わなくても十分な強度があり、現在も遺構として取り残されています。

グループG
焼成レンガを積み上げて宗教建築を生み出しました。現在もヒンドゥー教の影響を受けた彫刻が残されています。

グループA
東南アジア最高傑作と呼ばれた巨大な寺院があり、寺院の奥には聖山マハーパルヴァタが聳えます。

グループEF
ミーソン遺跡はまだ発掘途中であり周囲は森林にまだ未発掘の遺跡が点在していると言われ、未だに謎が多い遺跡であり、修復作業や発掘作業が進められています。

グループF
ミーソン遺跡は多くの建物が崩壊の危機にあり、建物や貴重な遺物の修復、管理が進められているところです。