ホイアン
ホイアンはベトナム中央部に位置する海辺の都市で、運河が巡るエンシェントタウンは名所として大切に保全されています。かつて港湾都市として多様な文物が交差した歴史が現存する建築物に反映されています。中国風の木造のショップハウスや寺院、色彩豊かなフレンチコロニアル様式の建物、凝った造りのベトナムのチューブハウス、仏塔がある屋根付きの日本橋(来遠橋)まで、さまざまな時代と様式が混在しています。
概要
- 面積
- 60km2
- 標高
- 不明
- 人口
- 15.22万 (2018年)
- 地図
特集
ホイアンの中華系建造物群
海外交易で栄えたホイアンは、中国人などの多くの商人のための外国人居留区が設けられ、中国明朝が滅亡すると中国から多くの人が移り住み貿易の実権を握りました。
歴史
ホイアンは、チャンパ王国時代に中国、インド、アラブなどを結ぶ貿易の中継地として栄えた都市です。1999年に世界遺産に指定されました。16~17世紀にはアユタヤやマニラと同じように日本人町も作られ、最盛期には1000人以上の日本人が住んでおり、その面影として日本橋(来遠橋)があります。
交易都市ホイアン
ホイアンは、チャンパ王国の支配下で古くから交易の拠点として繁栄していました。チャンパ王国の優れた航海技術により、8~9世紀にはイスラム商人が中国や東南アジアに来航するようになり、ホイアンは東西交易の重要な拠点となりました。チャンパ王国の沈木(香木)は重要な交易品で、奈良の正倉院にも保管されています。
黎朝の支配下
14世紀から15世紀にかけて交易国家として繁栄した琉球王国は、チャンパ王国と通行関係がありました。1425年に黎利が明の支配を脱して黎朝を建国すると、1471年にチャンパ王国の土地を勝ち取り、ホイアンも黎朝の支配下となりました。
ホイアン旧市街
東西交易の重要な拠点となり繁栄しました。現在も古き良き町並みが残ります。
ホイアン旧市街
トゥボン川では中国文化を色濃く受けた燈籠流しなどのイベントが行われます。
朱印船貿易
1604年から徳川幕府は朱印船貿易を開始しました。およそ30年に少なくとも356隻の朱印船が渡航しました。ホイアンはファイ川の河口にあるため、外国人からファイフォと呼ばれていました。黎朝は外国との貿易を保護するために外国人居留区を整備しています。
日本人町と日本橋(来遠橋)
ホイアンには日本人町が形成されて1617年に最も栄えたと言われます。日本人が数百人が住み、日本人の商人たちは1593年に街の入口に橋を架けました。1635年に江戸幕府が鎖国令を発布すると、海外渡航が禁止されて日本人町は次第に衰退していきました。取り残された日本橋は、遠くから人を迎え入れる橋として使用されるようになり、来遠橋と呼ばれるようになりました。
日本橋(来遠橋)
日本人が建造した橋で、ホイアンのランドマークの一つとなりました。現在は日本橋と呼ばれて親しまれています。
日本橋(来遠橋)
橋の西側に西側に日本人町、反対側に中国人町があり、日本橋が両国の町を繋いでいました。
日本橋(来遠橋)
内装は中国や日本の建築様式で、1653年に寺院としての性質も付加されました。
鎮魂の像
日本人商人たちは巨大ナマズが暴れるため地震や洪水に見舞われると信じていました。日本橋は巨大ナマズを退治して地震が起きないように建てられました。
ホイアンの衰退と現在
17~18世紀にはポルトガル、中国、日本などの商人が来航する貿易都市として栄えました。1601年に日本がベトナムに正式な国交を求めたことでベトナムと江戸幕府との貿易が急速に拡大しました。19世紀終わりになると、河川の土砂の流入でホイアンの港は浅くなり、ダナンに大型船が入港できる港湾が整備されたため国際港湾としての性格は失われて衰退しました。
ホイアン旧市街
多くの日本船舶が入港しホイアンには大規模な日本人街や中国人街が形成され、現在も変わらない日常の光景が続いています。
トゥボン川
河川の土砂流入により港湾機能が失われて町は取り残され、ベトナム戦争などでも町並みが破壊されずに残りました。