歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

マヤ遺跡とチチェン・イッツァ

メキシコ合衆国・メリダのチチェン・イッツァ

マヤ文明は今から2000年前にアメリカ大陸の中央部で生まれました。熱帯の大地で農耕を営む人たちは、マヤ文明と呼ばれる高度な文明を築き上げました。マヤ文明は環境の異なる広い範囲で栄えたため、変化に富んだ多彩な文明となりました。

チチェン・イッツァは9世紀頃に栄えたマヤ最大の都市で、数キロ四方の広い範囲に点在する遺跡には約3万5千人の人が住んでいたと言われています。ユカタン半島にはこの他にも多くのマヤ遺跡が残されており、巨大な建造物は石器と人の力だけで築かれています。

ウシュマル遺跡

ユカタン半島北部に位置するマヤ古典期後期に作られたウシュマル遺跡は、チチェン・イッツァと並びマヤ文明を代表する遺跡です。ウシュマルの古代都市は森深い草原地帯の東西600メートル、南北1キロメートルに広がり、都市は7世紀から10世紀にかけて繁栄して最大2万5千人が住んでいたと言われます。都市はスペイン人の蜂起により15世紀には放棄されました。ウシュマルの遺跡では碑文など歴史の詳細を物語る発掘がなされていないため、廃墟である建築物の多くは何に使われていたか判明していません。現在呼ばれている名称もスペイン人が推測で名付けたものです。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡

ウシュマル遺跡

丘やその麓に築かれたマヤ古典期後期に築かれ、10世紀頃に最盛期を迎えたチチェンイッツァと並ぶ代表的な遺跡です。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡

ウシュマル遺跡

同盟を結んでいたチチェン・イッツァが衰退するとウシュマルも次第に国力を失い、人口は減少して都市は放棄されました。

魔法使いのピラミッド

ウシュマルの遺跡の中で最も大きな構造物で、急な勾配と丸みを帯びた側面が印象的です。卵から孵化した小人が一晩でピラミッドを建造した伝説に由来して、地元の人から小人のピラミッドと呼ばれます。ピラミッドの建設は6世紀に開始され10世紀まで5回にわたり拡張されました。ピラミッドの最上部には、雨の神チャーク神を模るマスクのような装飾が数多くあります。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の魔法使いのピラミッド

魔法使いのピラミッド

ウシュマルの遺跡の中で最も大きな構造物で、小人が一晩で建造した伝説が残されています。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の魔法使いのピラミッド

魔法使いのピラミッド

ピラミッドの急な階段で観光客が滑落事故を起こしたため登頂禁止です。

球技場

マヤ族の生活の中で球技は欠かせないもので、ウシュマルにも両側の壁に石のリングが取り付けられた球技場が設けられています。その用途は諸説ありますが、ここで行われていた競技はマヤ人たちの楽しみでもあり、政治的な要素も含まれていたと考えられています。競技は足でゴムボールを蹴り、壁に取り付けられていた石のリングにボールを通す競技だと根強く言い伝えられています。競技は神に捧げる生贄を決めるもので、勝敗により斬首される生贄が選ばれました。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の球技場

球技場

壁には石のリングが取り付けられ、ゴムボールを蹴り入れる通すサッカーのようなゲームが行われていました。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の球技場リング

球技場リング

マヤの球技はゴムボールをリングに通せば勝利となり、このゲームで決められた生贄は神に命を捧げられました。

尼僧院

中央の大きな中庭を囲むように四方に建物が配置された尼僧院は、都市の中でも重要な施設だと考えられています。尼僧院の建物の建造時期は異なり、北側から南、東、西の順に建てられたと言われます。建物におびただしい装飾が施され、西側の建物は鉤鼻のチャーク神と絡み合う蛇の装飾で正面を飾られています。16世紀に訪れたスペイン人の歴史家は、尼僧院にある74の小さな部屋を見て修道女の宿舎を想像して尼僧院と名付けました。四方の建物は異なる高さの基礎の上に建てられ、それぞれの建物の正面には異なる装飾が施されています。建物で囲まれる中庭は、マヤの軍事訓練が行われていたとも考えられています。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の尼僧院

尼僧院

広場を中心に四方に建物が並び、その様子が修道院に似ていることからスペインの歴史家が尼僧院と名付けました。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の尼僧院の彫刻

尼僧院の彫刻

建物ごとに装飾は異なり、鉤鼻のチャーク神と絡み合う蛇の装飾で飾られているものもあります。

亀の家

球技場の南にある簡素な造りの長方形の建物は、建物の上部に配された小さな亀のような装飾があることから亀の家と呼ばれています。他の建物と比べると小さくて精巧とは言えない造りですが、均整が取れた美しさがあります。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の亀の家

亀の家

シンプルな長方形のあまり特徴のないシンプルな建物で、建物頂部に亀の装飾が施されています。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の亀の家の装飾

亀の装飾

雨の生き物とされる亀の装飾が施されていることから、亀の家と名付けられました。

総督の宮殿

この地方で根付いた建築様式は、丘が多い国という意味でプーク様式と呼ばれます。総督の宮殿はマヤ古典期において最も美しい建物と称えられており、長さ97メートルある建物の壁にプーク様式を代表する幾何学模様や蛇やチャーク神のモチーフが過剰に装飾しています。総督の宮殿の用途は不明で、貴族の住居や行政を司る場所であるなどの説が伝えられています。10世紀頃にメキシコ中央高原から訪れたシュウ一族がウシュマル一帯を統治したため、総督の宮殿もシュウ一族に関係していると考えられています。

総督の宮殿の南方にある小さい藁ぶきの小屋には、遺跡の中で発掘された男根の像と考えられる彫刻が施された石が並びます。マヤ族が信じる神には雨の神チャーク神があり、男根は豊穣を願うものとして崇拝されました。台地に築かれたウシュマルは大きな河川が無く雨水を頼りとしていたため、チャーク神がもたらす雨水は豊穣を含める全ての根源でした。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の総督の宮殿

総督の宮殿

プーク様式のモザイク装飾が特徴的な建物ですが、どのような用途で利用されたか判明していません。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の総督の宮殿

総督の宮殿

幾何学模様とともに蛇やチャーク神が模られ、その前面に男根の像と考えられる彫刻が施された柱が並びます。

大ピラミッド

高さ30メートルの大ピラミッドは、既存の構造の上に建物が置かれる予定でしたが、建物が乗せられる前に解体作業が始められたと言い伝えられています。北側の階段が修復されていますが、その周囲は生い茂る草木に覆われています。ウシュマルの遺跡ではチャーク神の信仰が盛んで、雨の神であるチャーク像が取り付けられるほか、建物の壁面にチャーク神が刻まれています。マヤの人びとにとり、雨が降るか降らないかは生きるうえで重要なものでした。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の大ピラミッド

大ピラミッド

階段が修復されているため、ピラミッドの頂上から遺跡全体を眺めることができます。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の大ピラミッド

大ピラミッドの彫刻

大ピラミッドの壁には雨の神チャーク神が刻まれています。

鳩の家

大ピラミッドの西側に位置する鳩の家は、建物上部には鳩の巣のような格子窓が設置されているため、鳩の家と名付けられています。総督の宮殿より前に建造されと言われ、現在は建物は残されておらず丘の上に壁だけが聳えています。鳩の家の役割は解明されていませんが、一説では総督の宮殿ができる前に行政を司る場所として建造されたと言われています。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の鳩の家

鳩の家

建物は残されておらず、壁だけがその存在を今に伝えています。

メキシコ・メリダのウシュマル遺跡の鳩の家

鳩の家

総督の宮殿より前に建造された建物で、行政を司る場所として機能したと言われます。

カバー遺跡

ウシュマルと姉妹都市の関係にあるカバーの古代都市は、丘陵地域の古代マヤ遺跡で見られるプーク様式の建造物が状態良く残されています。マヤ古典期末期の西暦600年から1000年に都市を形成したカバーは、近くにあるウシュマルの姉妹都市として反映して最盛期を迎えました。カバーの古代都市は近くにあるウシュマルとともに繁栄しましたが、11世紀初めにプーク地方の都市と同じように放棄されました。

メキシコ・メリダのカバー遺跡のマヤ凱旋門

マヤ凱旋門

カバーからウシュマルまで18キロのサクベ(舗装路)で結ばれ、入口の凱旋門はマヤアーチの典型といわれます。

メキシコ・メリダのカバー遺跡の大ピラミッド

大ピラミッド

森の中に残されている小高い禿山のような丘は、カバー遺跡の大ピラミッドが荒廃したものです。

コーツ・ホープ(仮面の神殿)

カバー遺跡で最もプーク様式を表現した建造物はコーツ・ホープになります。仮面の宮殿の異名を持ち、正面の壁には雨の神チャークがマヤの宗教暦(ツオルキン)と同じ260個も装飾されています。ユカタン半島には大きな河川が無いため、多くの人を維持するために必要な水を確保するために神に祈りを捧げて雨を乞いました。

カバー遺跡がある地域は雨季と乾季に分かれます。雨季は雨に恵まれますが、乾季になると雨はほとんど降らずに水不足になります。コーツ・ホープにある大広場には、雨の神チャークに祈りを捧げる祭壇と水を貯めるチュルトゥンが設けられています。チュルトゥンは地下に壺型の空洞を掘り漆喰で防水した貯水槽で、雨季に雨水を貯め込むことで乾季でも水の使用を可能にしました。

マヤ人たちは高度な天文学を身に着けて雨季や乾季を予想しましたが、生活や農業に必要な水の確保は神への祈りに頼らざるを得ない脆弱なものでした。プーク地域の都市は11世紀初めに突然として放棄されますが、この年代の地層から干ばつが起きていたことが知られています。

メキシコ・メリダのカバー遺跡

コーツ・ホープ

ユカタン半島のマヤ遺跡でよく見られるプーク様式で建造された巨大な建物で、仮面の宮殿の異名があります。

メキシコ・メリダのカバー遺跡

雨の神チャーク

マヤの宗教暦(ツオルキン)と同じ260個も装飾されています。

メキシコ・メリダのカバー遺跡

チュルトゥン

雨水を貯める貯水槽の役割があり、内部は漆喰で浸水を防いでいました。

メキシコ・メリダのカバー遺跡

祭壇の基壇

天文学が発達して雨季を予想しましたが、水の確保は神に頼らざるを得ず、基壇に神聖文字を彫り込んだ祭壇で祈りを捧げました。

コーツ・ホープ裏

コーツ・ホープの裏手は建物の崩壊が進み、正面にたくさん施されていたチャーク神の像は無くなり、代わりに建物の中央に2体の巨像が祀られています。この巨像は支配者の像と呼ばれており、カバー遺跡の名前の由来となりました。カバー遺跡のカバーとはマヤ語で力強い手という意味で、この2体の巨像が力強い手をしていることが由来と言われます。巨像が置かれた由来は分かりませんが、住民や他の都市に対して威厳を示すために作られたものと考えられます。

メキシコ・メリダのカバー遺跡

コーツ・ホープ裏

コーツ・ホープの裏面は崩壊が進み、正面にたくさん並んだチャーク神の像は配置されていません。

メキシコ・メリダのカバー遺跡

支配者の像

カバー遺跡の名前の由来となる力強い手をした巨像が2体設置されています。

大神殿

カバー遺跡の中心となる大神殿は、2層からなる建造物です。大神殿は位の高い神官が住んでいたと言われ、1層目は2層目の基壇のようで2層目にプーク様式の特徴が色濃く残る建造物が建ちます。大神殿の前の広場には中央に一本の円柱が建ちます。この円柱は男根信仰の象徴で、プーク地方の遺跡では特に信じられてきました。子孫繁栄はもとより農作物の豊作を願うシンボルとして信仰されたようです。

メキシコ・メリダのカバー遺跡

大神殿

2層構造のプーク様式の建築物で、位の高い神官が住んでいたと言われます。

メキシコ・メリダのカバー遺跡

大広間

大神殿前の大広間には、子孫繁栄と豊穣を願う男根信仰の象徴となる円柱が設置されています。

チチェン・イッツァ

マヤの言葉で泉のほとりの人を意味するチチェン・イッツァは、ユタカン半島最大の聖なる泉セノーテを中心に発展しました。9世紀頃に栄えたマヤ最大の都市で、数キロ四方の広い範囲に点在する遺跡には約3万5千人が住んでいたと言われています。高度な天文学を駆使して政治を行い、中央アメリカ各地と交易を行う国際都市として栄華を極めました。古代マヤ人は環境に適応しながら独自の文明を築きましたが、やがて人口の増加に伴う食料不足により戦争が引き起こされて衰退していきました。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァ模型

チチェン・イッツァ模型

数キロ四方の広い範囲に点在する遺跡には約3万5千人が住んでいたと言われています。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァ古代の生活

古代の生活

遺跡に残されている巨大な建造物は石器と人の力だけで築かれました。

マヤ天文学とカラコル(天文台)

マヤ人たちは森羅万象を神として崇めていました。アメリカ大陸の歴史の中で最も天文学を発展させたマヤ人は、月や太陽、星は神であり自分たちの生活に大きな影響を与えると考えていました。マヤの人たちは雨季と乾季に分かれる気候において、カラコルと呼ばれる天文台で観測して雨季を予測して種を撒く時期を決めていました。カラコルとは巻貝という意味で、かつて天文台の内部には巻貝のような螺旋階段が伸び、星を観測するための窓は東西南北に正確に取り付けられています。天体の中で特に重要なのは金星で、金星は戦争と豊作の守護神であり、マヤ人は金星の動きに合わせて戦争を行うことさえありました。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァの教会

教会

マヤ人たちは森羅万象を神として崇め、教会で神に祈りを捧げていました。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァのカラコル(天文台)

カラコル(天文台)

最も天文学を発展させたマヤ人は、天体を観測することで雨季を予測して種を撒く時期を決めていました。

ククルカンのピラミッド

チチェン・イッツァで最も際立つ建造物がククルカンのピラミッドです。ククルカンとは風と豊穣の神で、羽毛が生えた蛇のような形をしています。春分の日と秋分の日に階段に蛇の影を映し出し、王の守護神でもあるククルカンが舞い降りて来るように見えます。正面からククルカンのピラミッドに向けて手を叩いてみると、ケツァールの鳴き声のような音が山彦として聞こえます。

ピラミッドの石段を合計すると全部で365段あり、ピラミッド自体が巨大な太陽暦を示しています。マヤの王は政治に天文学や暦の知識を巧みに利用していました。最上部にはピラミッドで最も神聖な神殿があり、ここで王は神と交信を行いました。建物の梁には腐りにくいチューインガムの木が使われています。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァのククルカンのピラミッド

ククルカンのピラミッド

風と豊穣の神ククルカンを祀る神殿で、チチェン・イッツァで最も目立つ建造物です。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァのククルカン

ククルカン

春分と秋分の日には階段の影の形から王の守護神であるククルカンが舞い降りて来るように見えます。

球技場

チチェン・イッツァでも球技が盛んに行われていました。貴族や王族たちが2つに分かれて硬いゴムボールを蹴り合い石の輪に通すゲームと考えられています。マヤの球技は単なるスポーツにとどまらず国家儀礼や政治活動に結びついていました。

球技場は両側に壁があり、その壁の上部にゴールとなる円形の石の輪が取り付けられています。硬いゴム製のボールは重さ3キロにもなり、これを蹴り上げて数メートルの高さにある的に当てるのは至難の業と思えます。こうした球技の目的は定かではありませんが、神に捧げる宗教的な儀式である可能性が高いようです。

重要な祭礼では、球技のチームリーダーが生贄にされる場合もありました。球技に敗れたリーダーは、生贄として首を刎ねられて神に捧げるため生贄の基壇に捧げられました。祭壇の壁面には、多くのがい骨がレリーフとして施されています。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァの球技場

球技場

球技場は両側に壁がある広場で、両壁にある石の穴にゴムボールを蹴り入れる競技と考えられています。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァの球技場のゴール

球技場のゴール

球技のゴールは石の輪で作られており、それほど大きくない穴にボールを蹴り入れるのは簡単では無いと思います。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァのがい骨のレリーフ

がい骨のレリーフ

多くの人が首を落とされたことを示すレリーフです。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァの生贄の基壇

生贄の基壇

球技に破れた者などが生贄として捧げられるため、この祭壇で斬首されました。

セノーテ

ユカタン半島の北部には大きな川がありませんが、それでも文明が生まれたのは命の水をもたらすセノーテの存在によるものです。セノーテは水源としてのみならず宗教儀礼において重要な場所でした。干ばつが続くと雨の神チャークに生贄や数多くの供え物が捧げられました。伝説によれば生贄に選ばれた処女が蒸し風呂で身体を清めたあとセノーテに投げ込まれたと言われます。

20世紀の初めにセノーテに興味を示した考古学者エドワード・トンプソンは、チチェン・イッツァ周辺の広大な土地を購入して1904年にセノーテの調査を行いました。セノーテの底にはマヤ文明の財宝が手つかずのまま残されており、発見された装飾品はチチェン・イッツァのものだけでなく中米全域に渡る交易品でした。これによりチチェン・イッツァは各地と交易を行う国際都市ということが判明しました。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァのセノーテ

セノーテ

セノーテでは、雨の神チャークに生贄が捧げられました。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァの蒸し風呂

蒸し風呂

生贄として捧げられる少女が身を清めるために使用した蒸し風呂です。

戦士の神殿

戦士の神殿では、麓の柱が林立する千柱の間で一連の宗教行事が行われ、生贄の宗教儀礼も行われていたと言われます。神殿の最上段にあるにはチャック・モールは供え物を神の元に運ぶ戦士と考えられており、人の心臓などの供物はチャック・モールの台座に捧げられました。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァの戦士の神殿

戦士の神殿

生贄を捧げる宗教儀式が行われ、神殿最上部にあるチャックモールに人の心臓などの供物が捧げられました。

メキシコ・メリダのチチェン・イッツァのチャック・モール

チャック・モール

チャック・モールは捧げ物を神の元に運ぶ役割を担い、その台座には生贄の心臓などの供物が捧げられました。