歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

メキシコシティ

メキシコ合衆国・メキシコシティ

メキシコの首都メキシコシティは、人口密度が高く標高の高い高地に位置しています。テンプロ・マヨール(13世紀のアステカ時代の神殿)、スペインの征服者により建てられたメトロポリタン大聖堂、ディエゴ・リベラが手掛けた国立宮殿があります。

概要

面積
1,485km2
標高
2,240m
人口
885.5万 (2015年)
地図

特集

メキシコ・メキシコシティのメトロポリタン大聖堂

グアダルーペの奇跡とその効果

メキシコはグアダルーペの聖母マリアの奇跡により世界で第2番目にカトリックが盛んな国となりました。江戸時代に日本人も洗礼を受けています。

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歴史

メキシコシティはアステカ王国の王都テノチティトランを前身としています。スペインによる侵攻によりテノチティトランは破壊され、その上にメキシコシティが建設されました。スペインから独立するとメキシコ合衆国の首都として現在に至ります。

メソアメリカ文明

北米大陸から中米に延びる広大な高原地帯は、インディオがトウモロコシ栽培などを基本とする農耕文明であるメソアメリカ文明を形成していました。紀元前1200年頃にメキシコ湾岸にオルメカ文明が形成されると、やがてメキシコ高原のテオティワカン文明やユカタン半島のマヤ文明などに発展しました。メキシコ高原では紀元前2世紀から7世紀まで繁栄したテオティワカン文明のあとを受けてトルテカ文明が生まれ、1425年には現在のメキシコシティであるテノチティトランを都とするアステカ王国が生まれました。

アステカ文明

アステカ人はメシカ人とも呼ばれており、これが今日のメキシコの名前の由来となりました。高度なアステカ文明はピラミッド型神殿や絵文字を特徴とする独自の文明を築き15世紀中期に全盛期を迎えました。1978年に大規模な発掘が行われたテンプロ・マヨールは、テノチティトランの中心にあたる巨大な神殿で、アステカの偉大さを象徴する建造物の一つです。

メキシコ・メキシコシティのテンプロ・マヨール

テンプロ・マヨール

アステカ王国の巨大な神殿跡で、周囲にはピラミッド神殿や祭壇がありました。

メキシコ・メキシコシティのテンプロ・マヨール

テンプロ・マヨール

スペインにより跡形もなく破壊されましたが、1978年の発掘で多くの遺物が発掘されています。

スペイン入植とアステカ滅亡

1492年にコロンブスが太平洋を横断して西インド諸島に到達すると、スペイン人による侵略が始まりました。エルナン・コルテスはアステカ王国に対する他のインディオ部族の反発を利用しつつ、圧倒的な火砲と騎兵で1521年にアステカ王国の首都テノチティトランを攻略してアステカ王国を滅ぼしました。スペイン人はテノチティトランを破壊してメキシコシティを建設しました。

メキシコ・メキシコシティの国立宮殿

国立宮殿

アステカ国王モクテスマ2世の宮殿を建築資材としてエルナン・コルテスが自身の宮殿として、ディエゴ・リベラが手掛けました。

メキシコ・メキシコシティの国立宮殿

国立宮殿

正面の赤い火山岩のテソントレが特徴で、横幅は200メートル以上あります。現在はメキシコ連邦の行政機関の庁舎として利用されています。

スペインによる植民地支配

1535年にヌエバ=イスパニャ植民地としてスペイン人の副王が統治することになると、スペインは現地人をキリスト教徒化することを条件に労働力として使役することを認めるエンコミエンダ制を導入し、次いで現地人を奴隷として使役する大農園制のアシエンダ制により植民地支配を進めました。メキシコで産出されるメキシコ銀は、アカプルコから太平洋を越えてフィリピンのマニラを結ぶガレオン貿易の重要な輸出品となりスペインの繁栄をもたらしました。

メスティーソの独立運動

スペイン統治下ではスペイン人が支配権を握るため、インディオとの混血であるメスティーソなどの不満が高まりました。1808年にナポレオンがスペインを征服すると、メキシコではスペインからの独立運動が始まりました。1810年に蜂起を指導したイダルゴが捕らえられて処刑されると、メスティーソの神父のモレーロスがあとを継いで運動を継続しました。彼も捕らえられてスペイン駐留軍指揮官のイトゥルビデにより処刑されてからは、運動は一時抑えられることになります。

メキシコ・メキシコシティのチャプルテペク城

チャプルテペク城

1783年に植民地副王の夏の住居として築造され、軍事学校や皇居、大統領邸などで使用されました。

メキシコ・メキシコシティのチャプルテペク公園

チャプルテペク公園

チャプルテペク城の麓にあるメキシコ最大の都市公園のひとつです。

メキシコの独立

1820年にスペイン立憲革命が起こると、植民地駐留の王党派であるスペイン人イトゥルビデは、富裕なクリオーリョ層を味方にして1821年にコルドバ条約を締結してメキシコの独立を宣言しました。イトゥルビデは皇帝アグスティン1世として即位しますが、1823年に皇帝と議会が対立して皇帝はイタリアに亡命しました。イトゥルビデは1824年にメキシコに戻りますが、上陸と同時に捕らえられて処刑されています。

メキシコは1824年に憲法を制定して連邦共和制に移行し初代大統領にグアダルーペ・ビクトリアが就任します。この頃のメキシコは軍部とカトリック教会が大きな勢力として対立が続いて混乱し、やがてメキシコ独立戦争で活躍したサンタ・アナが1833年に大統領になり独裁的権力を振うようになりました。

メキシコ・メキシコシティの独立記念塔

独立記念塔

1821年にコルドバ条約を締結してメキシコはスペインから独立を果たしました。

メキシコ・メキシコシティの独立記念塔

独立記念塔

独立記念塔は独立百周年を記念して建てられました。

アメリカ=メキシコ戦争

サンタ・アナは議会を解散して軍事を一手に握る独裁政権を築きました。これには国内から反発の声が上がり、アメリカ人入植者が多く反発が特に大きなメキシコ領テキサスは、1836年にテキサス共和国として独立して1845年にアメリカ政府が併合しました。これにメキシコは抗議しますが、アメリカはメキシコに対して1846年に侵略を開始してアメリカ=メキシコ戦争となりました。

サンタ・アナ独裁体制ではインディオの反乱などを抱えており、アメリカに対して抵抗することができず、一方的な展開で首都メキシコシティを占領されてしまいました。1848年に締結されたグアダルーペ=イダルゴ条約によりカリフォルニアとニューメキシコがアメリカに売却され、メキシコは建国時の国土の半分以上を失うことになりました。その後も政治は安定せず、1910年から1917年にメキシコ革命が起こり、現在の国の基盤が出来上がりました。

メキシコ・メキシコシティのベジャス・アルテス宮殿

ベジャス・アルテス宮殿

メキシコ革命で工事が一時中断したオペラハウスです。

メキシコ・メキシコシティの革命記念塔

革命記念塔

メキシコ革命を記念する高さ67mの世界で最も高い凱旋門です。