ダラム
ダラム市は、イングランド北東部に位置するダラム州にあります。スコットランドの防衛の拠点として川沿いの小高い丘にダラム城やダラム大聖堂が築かれ、炭鉱業を中心とした町として栄えました。1986年にダラム城とダラム大聖堂はユネスコの世界遺産に登録されています。
概要
- 面積
- 32.12km2
- 標高
- 不明
- 人口
- 87,656人 (2001年)
- 地図
歴史
ダラムは7世紀にアングロサクソン七王国の時代にノーサンブリア王国の政治・軍事上の主要都市として発展しました。ウィリアム1世が即位するとスコットランドとの領土争いで重要な拠点となり、ダラム城やダラム大聖堂が建設されてダラム司教に強い権力が与えられました。ダラムは炭鉱業が栄え産業革命で繁栄を極めますが、石炭産業の衰退に伴い名門ダラム大学の学生の町へと変わりました。
ダラムの形成
イングランド北部に位置するダラムは、周囲を天然の川に囲まれた小高い丘に作られた町です。西暦1世紀頃にローマのガリア遠征によりローマ支配下となりますが、ローマの影響力が弱まる6世紀にはアングロサクソン七王国(ヘプターキー)が建国され、ダラムの地は七王国のひとつノーサンブリア王国が支配しました。ノーサンブリア王エドウィンは、627年にアイルランドから伝来したキリスト教に改宗しました。ノーサンブリア王オズワルドはキリスト教を普及させるため、635年頃にリンディスファーン島にカスバートを院長とするリンディスファーン修道院が建造されました。
ダラム市街
川沿いの小高い丘に町が造られ、アングロサクソン七王国(ヘプターキー)のノーサンブリア王国が支配しました。
リンディスファーン島
キリスト教が伝来して、カスバートを院長とするリンディスファーン修道院が建造されました。
バイキングの襲撃
8世紀になるとデーン人(ヴァイキング)がイングランド沿岸部が襲撃するようになりました。これに脅威を覚えた七王国は対抗するために少しずつ統合するようになり、954年にノーサンブリア王国はエリックが退位してウェセックス王国に併合されました。デーン人はキリスト教修道院を破壊したため、リンディスファーン修道院の修道士たちは877年に埋葬されていた聖カスバートの遺体を3重の棺に納めて島から運び出しました。
迷子の牛を探す少女
修道士たちは聖カスバートの遺骸とともに北部イングランドを転々としていると、迷子の牛を探す少女に出会いました。修道士たちは少女に導かれるように進むと、やがて蛇行した川に囲まれる見晴らしのよい高台にたどり着きました。ここで聖カスバートの棺をどうしても動かすことができなくなり、修道士たちは教会を建てて祀るべきという神のお告げだと悟り、995年にダラム大聖堂の前身となる教会を建てました。
ヴァイキング
9~12世紀に海洋に進出し交易や略奪を行い、キリスト教修道院を破壊しました。
聖カスバートの移葬
デーン人の侵攻により、リンディスファーン修道院の修道士たちは877年に埋葬されていた聖カスバートの遺体を島から運び出しました。
ダラム大聖堂
ダラム大聖堂は、1093年にウィリアム1世の命によりダラムの初代領主司教ウィリアム・オブ・セント・カリレフにより建設が始まります。1134年にウィリアムは亡くなり、ラヌルフ・フランバードが引き継いで完成しました。ダラム大聖堂はノルマン・ロマネスク様式で半円形のアーチや分厚い壁などが特徴です。天井には交差リプヴォールトが用いられノルマン・ロマネスク様式とゴシック様式が合わせられた構造です。
ダラム大聖堂
ノルマン・ロマネスク様式の教会は英国最大で最高傑作とされ、英国国教会の中心地としての第4位の地位を誇ります。
ダラム大聖堂
身廊の両側には菱形模様の柱が並び、一角に聖カスバートの聖遺物などが保管されます。回廊と中庭は映画ハリーポッターのロケ地になりました。
ダラム城
1066年にノルマンディ公ギヨーム2世がノルマンコンクエストによりウィリアム1世として即位しました。ウィリアム1世はアングロサクソン時代から封建領主でるダラム司教を味方につけるため、1072年にスコットランドに対する防衛拠点として城塞が建てました。ダラム司教の邸宅がオークランドに移転してからは、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学に次いで1832年に創設したダラム大学の学生寮に1837年から転用されています。
ダラム城
ダラム司教の邸宅となり、イギリス最大の大広間ブレイトホールやノルマン様式の傑作と言われるノルマン礼拝堂が造られました。
ダラム城
1837年からダラム大学の学生寮として使用され、映画ハリーポッターのロケ地として利用されました。
ダラムの危機
1534年にヘンリー8世が離婚問題から教皇と対立すると、ヘンリー8世は国王至上法を発布してカトリックと絶縁しました。ヘンリー8世は1538年に修道院解散令を出してカスバートの墓は破壊され、1540年にはダラムのベネディクト修道院が解体されました。
1649年にピューリタン革命(清教徒革命)で国王チャールズ1世を処刑したクロムウェルは、権力を得て独裁政治を行うようになりました。クロムウェルはスコットランドに侵攻して1650年のダンバーの戦いでスコットランド軍を破り、捕虜となるスコットランド人をダラム大聖堂に投獄しました。
ヘンリー8世
自身の離婚問題から英国国教会を設立し、1540年にはダラムのベネディクト修道院を解体しました。
クロムウェル
清教徒革命で台頭してスコットランドに侵攻し、捕虜となるスコットランド人をダラム大聖堂に投獄しました。
産業革命と現代
鉱物資源に恵まれていたダラムは、18世紀後半の産業革命により19世紀から炭田開発に伴いイギリスの工業地帯の一つとして発展しました。ダラムは工業地帯として発展しましたが、石炭産業の衰退に伴いダラムの産業は軽工業へ転換されていき、西部の高地では牧羊、東部では農業が盛んに行われるようになりました。
チャールズ・ヴェーン
第3代ロンドンデリー候で、鉱山経営を行い莫大な財を築きますが、1844年に炭鉱労働者との闘争が起こりました。
ダラム市街
ダラムの中心部は名門ダラム大学に通う学生が多く住む町になりました。