大英帝国の海洋進出
15世紀のスペインやポルトガルは、羅針盤(コンパス)などの最新遠洋航海技術を採用して大西洋からアジア、アメリカ大陸へと航海を行う大航海時代に突入しました。この動きに乗り遅れたイギリスは18世紀に産業革命により資本主義経済を発展させ、世界各地に植民地を持つ大英帝国と呼ばれる繁栄を見せました。
大航海時代の始まり
15世紀のヨーロッパはイタリア商人とムスリム商人により地中海の商業が発展していました。銀と引き換えに香辛料が取引されていましたが、イスラム勢力のオスマン帝国が勢力を拡大すると交易に高い関税が掛けられて自由な貿易が行えなくなりました。ポルトガルのエンリケ航海王子が遠洋航海技術の発展に尽力し、やがてヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸に沿いインドまで至る東回りの航路を確立しました。スペインはポルトガルに対抗して西回りでインドへの航路を確立しようとしました。クリストファー・コロンブスはスペイン女王イザベルから援助を受け航海に出発して新大陸を発見しました。やがてヨーロッパ各国は海洋に進出してアジアを目指すようになり、交易のみならず各地を植民地化して労働力を得て莫大な財を得ました。
エンリケ航海王子
遠洋航海技術の発展に尽力し、やがてヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸に沿いインドまで至る東回りの航路を確立しました。
コロンブス
スペイン女王イザベルから援助を受け航海に出発して新大陸を発見しました。
海賊を操るエリザベス1世
1559年に戴冠してイングランド女王に即位したエリザベス1世は、すでに大航海時代を迎えて各地に植民地支配を行うスペインに反発して、フランシス・ドレイクに海賊行為を行わせてスペインの財宝を略奪し、その金品をイングランド王家に献上しました。ドレイクはナイトの称号を与えられ帝国艦隊の司令官に任命されることになります。この頃、エリザベス1世は反乱を企てたスコットランド女王メアリ・スチュアートを処刑したことで、1588年に同じくカトリック教徒のスペイン王フェリペ2世はスペイン無敵艦隊をイングランドに派遣しました。フランスのカレー沖で起きたアルマダの海戦でスペイン無敵艦隊に勝利したイングランドは、交易を拡大して1600年にはインドに東インド会社を設立しました。世界七つの海にイングランド商船が行き交いイングランドに莫大な利益をもたらしました。
エリザベス1世
大航海時代を迎えて各地に植民地支配を行うスペインと敵対しました。アルマダの海戦でスペイン無敵艦隊を破りイギリスを海洋大国に導きました。
アルマダの海戦
ドレイクの作戦で火をつけた火船をスペイン艦隊に衝突させる奇襲作戦を行い、強風の煽りを受けてスペイン無敵艦隊に勝利してイングランド上陸を防ぎました。
英蘭戦争
1602年にオランダはオランダ東インド会社を設立して海洋大国となると、圧倒的な質と量の交易で他国の貿易船を締め出していました。1623年には香辛料貿易を巡り東南アジアのモルッカ諸島でオランダ東インド会社がイギリス商館を襲撃するアンボイナ事件を起こしました。オランダ船はイギリスの近海とテムズ川を占拠し続けたため、クロムウェルは1651年に航海法を制定して外国貿易船の就航を禁止しました。1652~54年まで第一次英蘭戦争が勃発して、1665~67年の第二次英蘭戦争ではオランダ海軍デ=ロイテルの活躍でイギリスは大敗北を喫しますが、南米スリナムをオランダに譲る代わりに新大陸のオランダ植民地のニューアムステルダムをニューヨークと改称してイギリス領としました。1672~74年の第三次英蘭戦争では、イギリスのチャールズ2世がフランスのルイ14世とドーヴァーの密約を結び、1672年にフランスがオランダに侵略してイギリスもオランダに宣戦布告しました。デ=ロイテルはイギリス海軍を撃破してイギリスの上陸は阻止されました。
クロムウェル
清教徒革命で台頭したイギリス人で、オランダ船を追放するために1651年に航海法を制定して外国貿易船の就航を禁止しました。
デ=ロイテル
英蘭戦争でオランダ海軍を率いてイギリス海軍を何度も撃破し、無類の強さを誇るオランダ海軍の英雄とされています。
アフタヌーンティーの文化
茶葉の原産地は中国とインドの国境地帯にあたるヒマラヤ周辺の高原地帯だと言われています。自生していた原木を栽培したことに始まり、やがて茶葉の栽培はスリランカ、インドネシア、ケニアなどに広がりました。日本には鎌倉時代の僧・栄西が中国(宗)から持ち帰り育てたのが最初と言われています。1662年にはチャールズ2世がポルトガル王女キャサリンと結婚したことで茶を飲む文化がイギリス王室に入り、アフタヌーンティーの文化が誕生しました。
茶
イギリスは硬水で飲用に適さないため、中国から茶を輸入して煎じて飲むようになり、紅茶はイギリスで大流行しました。
ポルトガル王女キャサリン
チャールズ2世に嫁いだことで茶を飲む文化がイギリス王室に入り、アフタヌーンティーの文化が誕生しました。
世界を動かした紅茶
東インド会社が茶の独占権を獲得したことで、イギリスで茶の輸入量が極端に増えました。イギリスの水は硬水のため飲用に適さないため、中国から茶を輸入して煎じて飲むようになり、これまで貴族で嗜まれていた紅茶は庶民にまで定着していきました。
アヘン戦争
イギリスは中国から銀と交換して茶葉を輸入していましたが、茶の取引で流出する銀の量が問題となりました。イギリスは18世紀に起きた産業革命を利用してインド、中国とともに三角貿易を行うことで銀の流通を円滑にしました。インドは上質な綿の産地であるため、イギリスはその綿で製造した綿製品をインドに売却して茶葉を買う銀を獲得し、インドは中国清朝に麻薬アヘンを密輸することで銀を獲得しました。こうした三角貿易で銀の流通は改善されましたが、中国はアヘンの密輸でアヘン中毒者が社会問題となり、イギリスとアヘン戦争が起きました。清朝はアヘン戦争で敗れて南京条約で多額の賠償金や香港などの割譲などが課されることとなり、世界情勢が大きく変わりました。
ボストン・ティーパーティー
イギリスは1607年にアメリカのバージニア州を皮切りに、1732年の英仏植民地戦争までに13州まで植民地を広げました。イギリス政府はアメリカ植民地と良好な関係でしたが、1754~63年のフレンチ=インディアン戦争に伴うパリ条約でルイジアナを獲得すると、ミシシッピ川より東側の入植を禁止する1763年宣言を発表して紅茶などに高い関税をかけました。これに反対したボストンの民衆は、1773年にボストン港に停泊していた東インド会社の商船を襲撃して積載していた茶箱を海に投げ捨てるボストン・ティーパーティ事件を起こしました。これを遠因として米国独立戦争に発展していくことになります。
アヘン戦争
アヘンの密輸を巡りイギリスと清が戦いましたが、清国は敗れて多額の賠償金が課されたうえ香港などを割譲されました。
ボストン・ティーパーティ
アメリカ植民地に対して紅茶に関税をかけたことで反乱が起き、東インド会社の商船が襲撃されて積載していた茶箱が海に投げ捨てられました。
カティサーク
紅茶は需要が高く、特に毎年初物となる紅茶は高値で取引されたため、一番乗りを競う紅茶輸送レースは熾烈を極めました。1869年に進水したカティサークは、中国から紅茶を輸送する快速帆船ティークリッパーとして活躍し、1872年の初物の紅茶輸送レースではサーモピレーと競い合いました。華やかな紅茶輸送レースも1869年にスエズ運河が開通して蒸気船が航行し始めたことで衰退し、カティサークやサーモピレーは羊毛などの貨物輸送に変更されました。やがてカティサークとサーモピレーはポルトガル海軍に売却され、サーモピレーは1907年にポルトガル海軍の演習で実弾砲撃の標的にされて最後を遂げました。カティサークは1895年にポルトガルに売却されましたが、1922年にイギリスに買い戻されて保存展示されました。翌年、アメリカ市場向けに発売されたウイスキーはこの船の人気にあやかりカティサークと名付けられています。
カティサーク
全長86メートル、総トン数936トンの快速帆船で、乗員28名が中国から紅茶を運びました。
カティサーク
船名の由来となる彫像が船首にあり、魔女がシミーズ(カティサーク)を着て、馬に乗るタムを捕まえようと追いかけ、馬の尻尾を掴み取る場面です。
グリニッジ王立海軍学校
イギリスが世界各地に植民地を持つ海洋国家に成長すると、イギリス海軍は世界最強と称えられるようになりました。イギリス国王メアリー2世は、1663年に取り壊されたプラセンティア宮殿の跡地に海軍病院と退役海兵の住居を建造しました。1703年に建てられた海軍病院と海軍兵の住居はクリストファー・レンが設計したバロック様式の建物で、1873から1998年まで海軍士官を養成するグリニッジ王立海軍学校として使用されました。1805年にトラファルガーの戦いで戦死したイギリスの英雄ネルソン提督は、グリニッジに運ばれてネルソンルームに遺体が安置されました。ネルソンは現在でも人気が高く、旧王立海軍学校の近くにあるグリニッジ国立海事博物館ではネルソンに関する史料が展示されています。
グリニッジ王立海軍学校
プラセンティア宮殿の跡地に海軍病院と退役海兵の住居が建造され、のちにグリニッジ王立海軍学校として使用されました。
グリニッジ王立海軍学校
クリストファー・レンが設計したバロック様式の建物で、現在はグリニッジ大学が保有しています。
ネルソン提督とトラファルガーの海戦
1804年にフランス国王にナポレオンが国王に即位すると、勢力を拡大するナポレオンに対してイギリス海軍はフランス海軍の活動を制約する海上封鎖を行いました。これに激怒したナポレオンはイギリス本土の侵攻を決め、これに呼応して神聖ローマ帝国などが反仏同盟を結成しました。ナポレオンはフランス・スペイン連合艦隊にイタリア・ナポリの攻撃を指示すると、1805年にスペインのカディス沖トラファルガーでイギリス艦隊と戦闘になりました。帆船で高い操船技術が求められたこの時代は、至近距離での船の両舷からの砲撃と船に移乗しての白兵戦が主流でした。艦隊数で劣るイギリス海軍の提督ホレーショ・ネルソンは、接近戦を仕掛けるべく最前列のヴィクトリー号で指揮を執り、隊列を2列にして激しい砲撃に耐えながら連合艦隊の中央突撃を行いました。このネルソンタッチと呼ばれる戦術はフランス・スペイン連合艦隊を分断して統率系統を乱し、イギリス海軍の圧倒的な勝利で幕を閉じました。勝利の代償としてネルソン提督は銃弾に倒れて戦死しますが、イギリス海軍は大西洋及び地中海を制して海洋の覇者・大英帝国の礎を作ることになります。
ネルソン提督
トラファルガー海戦で艦隊数で劣るイギリス海軍を指揮し、ネルソンタッチと呼ばれる戦術でフランス・スペイン連合艦隊に圧勝しました。
ネルソン提督の軍服
トラファルガー海戦で着用していたものです。ネルソン提督の死と引き換えにイギリス海軍は大西洋及び地中海を制して海洋の覇者に君臨していきます。