ルクセンブルク

ルクセンブルク大公国の首都であるルクセンブルク市。世界屈指の金融市場を有する富裕な都市の1つですが、市内には高層ビルも富裕層が買い物をする高級ショップ街もありません。ルクセンブルク市街は、その古い町並みと要塞都市の遺構が世界遺産に登録されています。
概要
- 面積
- 51.46km2
- 標高
- 402m
- 人口
- 107,247人 (2014年)
- 地図
歴史
ルクセンブルクは古代ローマからフランク王国へと支配が移りました。神聖ローマ皇帝を輩出したルクセンブルク伯が支配しますが、ブルゴーニュ公国やハプスブルク家が支配するようになりました。神聖ローマ帝国が解体されるとルクセンブルク大公国となりました。
古代ローマとフランク王国の支配
ルクセンブルグの地には3万5千年以上前から人類が住んでいたと考えられています。紀元前1世紀中期にガイウス・ユリウス・カエサルのガリア遠征で共和制ローマの属州となりました。初代皇帝アウグストゥスが即位して共和制ローマが帝政に移行すると、395年に東西に分裂してルクセンブルクは西ローマ帝国に属しました。3~4世紀にゲルマン人が侵入して西ローマ帝国が滅亡すると、ライン川東岸にいたゲルマン人の一派フランク人がフランク王国を建国しました。

ルクセンブルク市街
3万5千年以上前から人類が住んでいたと考えられ、人類が定住した痕跡は紀元前13世紀から8世紀のものと考えられています。

ガイウス・ユリウス・カエサル
ガリア遠征で名を挙げた共和政ローマの政務官で、ガリア遠征でローマで絶大な人気を獲得しましたが、ブルートゥスらにより元老院議場で暗殺されました。
神聖ローマ帝国
東フランク王国のオットー1世は、962年にローマ教皇から神聖ローマ皇帝に戴冠されてフランク王国は崩壊しました。ルクセンブルグ周辺はジークフリートが領有し、ジークフリートの孫ギゼルベルトはルクセンブルク城伯を名乗り、その子コンラート1世がルクセンブルク伯を名乗りました。神聖ローマ帝国の大空位時代では、ドイツ王とフランス王に臣従するルクセンブルク伯ハインリヒ7世が神聖ローマ皇帝に選出されました。ハインリヒ7世はボヘミアを平定して支配下に置くことに成功しました。
カール4世
カール4世が神聖ローマ皇帝となると、ルクセンブルク伯領は異母兄弟ヴェンツェルに継承されました。カール4世はボヘミアの中心地プラハで大学の設立、プラハ市街の拡張、橋や城の再建、鉱山開発の促進などを進め、ルクセンブルクの土地は次第に軽視されました。

ジークフリート
ルクセンブルク伯国の創始者と見なされている人物で、963年にトリーアの聖マクシミン修道院からルクセンブルクの地を手に入れて小さな城塞を築きました。

カール4世
1355年に皇帝に即位したカール4世は、1356年に金印勅書を制定して神聖ローマ帝国の皇帝選出の方法を定めました。
ハプスブルグ家の統治
プラハの整備が進められたことでルクセンブルクは地位を失い、1443年に借金の抵当としてブルゴーニュ公国の支配下に置かれました。1477年にブルゴーニュ家シャルルがナンシーの戦いで戦死して一人娘マリーがブルゴーニュ女公となりますが、マリーはフランスからの圧力に耐えかねてハプスブルク家マクシミリアン1世と結婚し、ブルゴーニュ公国はハプスブルク家の所領となりました。

ルクセンブルク
カール4世がプラハを整備するにしたがい、ルクセンブルクは次第に軽視されていきました。ルクセンブルクは借金の抵当として所有権が転々としました。

マクシミリアン1世とマリー
ルクセンブルクはブルゴーニュ家が統治しましたが、女公マリー・ド・ブルゴーニュがハプスブルク家マクシミリアン1世と結婚してハプスブルク家の所領となりました。
宗教改革の波
1555年にカール5世が退位すると、スペイン=ハプスブルク家のフェリペ2世がルクセンブルクを含むネーデルランドを継承しました。マルティン・ルターの宗教改革により各地で内乱が起き、ネーデルラントはルターの影響を強く受けたカルヴァンの教義が浸透しました。敬虔なカトリック教徒のフェリペ2世は、プロテスタントのカルヴァン派を弾圧しましたが、凶作や疫病などが重なることで泥沼の宗教戦争へと発展していきました。1618年に始まる三十年戦争により、オランダやスイスが独立して神聖ローマ帝国の権威は衰退していき、1701年にはスペイン=ハプスブルク家はスペイン継承戦争に敗れてルクセンブルクはオーストリア=ハプスブルク家の支配下になりました。

マルティン・ルター
宗教改革によりプロテスタントを創始してカトリックと激しく争うようになり、宗教戦争へと発展しました。

ノートルダム大聖堂
1621年にイエズス会が創建して、1870年にルクセンブルク唯一の大聖堂となりました。1935年から増改築されて現在の姿になりました。
ルクセンブルク大公国の成立
ナポレオン戦争で神聖ローマ帝国が解体されると、1815年のウィーン議定書によりオランダ王ウィレム(ギョーム)1世を大公とするルクセンブルク大公国となりました。ルクセンブルクはオランダ王国との同君連合を解消するため、1830年のベルギー独立運動に連動して離脱を図りましたが失敗に終わりました。
永世中立国
ルクセンブルクにはプロイセン軍が駐屯していたため、フランス・ナポレオン3世がルクセンブルクの買収しようとしました。1867年にプロイセンとフランスの緩衝地帯としてルクセンブルクを永世中立国とするロンドン条約が締結されました。1890年にはオランダ王家ルクセンブルク大公の後継者が途絶えたことで同君連合が解消され、ルクセンブルク大公はナッサウ・ヴァイスブルク家が就任して独自の王室となりました。

ギョーム広場
1815年のウィーン議定書により、オランダ王ウィレム(ギョーム)1世がルクセンブルク大公国を建国しました。

ルクセンブルク大公宮
16世紀に市庁舎として建てられ、1817年からオランダ大公の総督が置かれました。1890年から大公の宮殿となりました。
相次ぐ世界大戦と戦後の発展
ルクセンブルクは永世中立国でしたが、地理的にフランスとドイツに挟まれるため、両国の戦争では容赦なく巻き込まれました。1914年に始まる第一次世界大戦や1939年の第二次世界大戦で、ルクセンブルクはドイツ軍に占領されました。
世界的に裕福な国
2度の大戦において侵略を受けたルクセンブルクは、1948年に中立政策を放棄して北大西洋条約機構(NATO)に加盟しました。ルクセンブルクには欧州司法裁判所、欧州投資銀行、欧州統計局本部が置かれてヨーロッパの中心地となり、外国企業を誘致して欧州市場のゲートウェイとして世界的に裕福な国になりました。

ルクセンブルク市庁舎
1820年代に建築家ジャスティン・ルモンの設計により、フランシスコ会修道院の跡地に建てられたネオ・クラシック様式の建物です。

憲法広場
第一次世界大戦や第二次世界大戦の戦没者を追悼するため、1923年に建てられました。勝利の月桂冠を掲げた金の女神像は、自由と抵抗の精神を象徴しています。