歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

大航海時代とバルセロナ

スペイン・バルセロナのバルセロナ海洋博物館_レアール号

地中海に面するバルセロナは港湾都市として発展を遂げました。中世には地中海をイスラム勢力が抑えていたため、アジアとの航路を開拓する大航海時代を迎えます。ポルトガルに先を越されたスペインは、コロンブスにより大西洋を横断して新大陸を発見し、これを足掛かりとして世界各地を植民地を置く太陽の沈まぬ国となり、地中海の覇権を巡りオスマン帝国と争うことになります。

大航海時代とスペイン

13世紀までは、中国やイスラム勢力が世界の経済の主役でした。中国は世界の文化的な中心地であり、中東を中心とするイスラム勢力はアジア、アフリカ、ヨーロッパとの交易を行いました。イスラム勢力が地中海を抑えると、キリスト教を基盤とするヨーロッパ各国は交易に困るようになり、ヨーロッパの端にあるスペインやポルトガルは海路を切り開いてアジアまでの交易路を確保する必要がありました。

スペイン・バルセロナのキャラベル船

大航海時代

大航海時代の先駆けとなるポルトガルは、アフリカ大陸に沿いインドまで至る東回りの航路を確立し、日本とも交易を行うようになりました。

コンパスと地図

大航海時代

海洋進出に乗り遅れたスペインは、コロンブスの申し入れを採用してポルトガルとは逆方向の西回りの航路でインドを目指すことになります。

コロンブスと新大陸発見

スペイン女王イザベルから援助を受けたクリストファー・コロンブスは、1492年に86人の船員を引き連れ、スペイン南部の港からサンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻の船で大西洋横断に向けて出港しました。およそ2か月で未知の島サンサルバトル島を発見して現地のアラワク族から水や食料を提供してもらいましたが、コロンブスはアラワク族を捕虜にして略奪などを行いました。

新大陸発見

コロンブスはサンタ・マリア号が座礁すると、ドミニカ島に39名の船員を残してスペインに帰国しますが、翌年に17隻の船団を組んで戻ると現地に残されていた船員は全員殺害されいました。スペイン人たちは報復として先住民の殺人や強奪を繰り返すようになり、コロンブスの3回目の来訪では従わないスペイン人たちも容赦なく処分するなど非道な行為が激しくなりました。コロンブスは逮捕されてスペイン本国に送還されますが、スペインによる植民地支配は世界中に広がることになります。

スペイン・バルセロナのコロンブス記念塔

コロンブス

アメリカ大陸を発見したコロンブスは、周辺の島を偵察してこれらの島を西インド諸島と名付け、現地民をインディオと呼びました。

スペインのバルセロナ海洋博物館_サンタ・マリア号

サンタ・マリア号

サンタ・マリア号を旗艦として大西洋を横断しました。サンタ・マリア号は偵察中に座礁したため、コロンブスはスペイン本国に戻ることになりました。

地中海の覇権

16世紀のスペインは、ハプスブルク家のもとで太陽の沈まぬ国と呼ばれるほど繁栄していました。小アジアではオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼし、スレイマン1世の下で黄金時代を迎えました。両国は貿易の重要な経路である地中海を巡り覇権を争うことになります。スレイマン1世はプレヴィザで戦いでスペイン連合艦隊を破り、地中海の覇権をオスマン帝国が握りました。

レパントの海戦

スペイン・ハプスブルク家を継いだフェリペ2世は、ローマ教皇ピウス5世の呼びかけによりヴェネチア共和国とともに神聖同盟を組み、オスマン帝国のスレイマン1世の跡を継いだセリム2世と地中海の覇権を争いました。1571年にドン・ファン・デ・アウストリアを総司令官とする神聖同盟は、アリ・パシャ率いるオスマン帝国と衝突して激しい戦いとなりました。レパントの海戦でアリ・パシャは討ち取られ神聖同盟が勝利し、スペイン艦隊は以降も発展を続けて無敵艦隊と称されるようになりました。

カール5世

カール5世

カール5世は神聖ローマ皇帝でありスペイン国王で、ローマ教皇パウルス3世とヴェネチア共和国のキリスト教勢力で神聖同盟を結成してオスマン帝国と戦いました。

スレイマン1世

スレイマン1世

スレイマン1世はビザンツ帝国を滅ぼしてオスマン帝国の黄金期を築き、プレヴィザで戦いでオスマン軍ハイレッディンがスペイン連合艦隊を撃破しました。

スペイン・バルセロナ海洋博物館_レアール号

レアール号

バルセロナ海洋博物館に展示されている原寸大の精巧なレプリカです。レパントの海戦のためにスペインが建造した巨大なガレー船です。

スペイン・バルセロナ海洋博物館_レアール号

レアール号

全長60メートル、幅6メートルで当時としては非常に大きな船でした。当時の豪華な装飾が施されており、290人の奴隷が漕いで進みました。