バルセロナ
バルセロナはスペインのカタルーニャ州の州都で芸術と建築で有名な国際都市です。市内にはアントニオ・ガウディが設計した幻想的なサグラダ・ファミリア教会をはじめとしたモダニズム建築が点在し、ピカソやミロ、ガリなどの芸術家が活躍した場所でもあります。
概要
- 面積
- 101.9km2
- 標高
- 12m
- 人口
- 162万 (2018年)
- 地図
特集
歴史
芸術と建築で有名な国際都市バルセロナは、古代ローマに開かれたバルチーノが起源と言われます。イスラム勢力からカタルーニャ地方が独立すると中心都市として繁栄しました。20世紀のスペイン内戦では人民戦線政府の拠点となりますが、バルセロナは陥落して衰退しました。1992年のバルセロナ・オリンピックによりバルセロナは国際都市としてスペイン随一の観光都市となりました。
バルセロナの起源
紀元前200年頃の地中海では、チュニジアの首都チュニスを中心とするカルタゴとローマで地中海の覇権を争いました。古代ローマに恐れられたカルタゴの雷光ハンニバル・バルカは、父ハミルカル・バルカとともにバルカン半島に進出し、このときカルタゴ人により開かれたバルチーノがバルセロナの起源と言われます。
紀元前20年になるとローマ人がバルチーノに進出して、古代ローマの威厳を示すために退役軍人を移住させるための植民市としました。アジア系遊牧民族フン族に追い出されたゲルマン系の西ゴート族は、イベリア半島にも到来して569年にスペイン・トレドを首都として西ゴート王国を建国し、ローマ人を追い出してバルセロナを含むイベリア半島を勢力下に置きました。
サンジャウマ広場
古代ローマ時代からバルセロナの中心でした。
ローマ水道橋
サンタ・エウラリア大聖堂の隣にあるローマの水道橋です。
イスラム勢力による支配
ローマ帝国が衰退すると、イスラム勢力のウマイヤ朝は中東から一気に勢力を拡大していき、アフリカ北部の地中海沿岸を支配するようになりました。711年にはウマイヤ朝が西ゴート王国に侵攻して西ゴート王国を滅ぼしました。ここからイスラム国家から土地を取り戻してキリスト国家にするレコンキスタが700年に及ぶことになります。
内乱によりウマイヤ朝が滅ぼされると、アブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃亡して756年に後ウマイヤ朝を興します。10世紀になるとカタルーニャは自力で後ウマイヤ朝との戦いに勝利して、11世紀にはバルセロナ伯領を中心とするカタルーニャ君主国を確立させました。これが現代まで続くカタルーニャ州の源流となります。
ゴルゴダの丘
3本の十字架が掲げられています。
ゴルゴダの丘
バルセロナ市街と地中海が眺められます。
スペイン王国の成立
12世紀になるとカタルーニャ君主国はアラゴン連合王国を構成する一勢力としてその力を拡大します。12世紀から15世紀にかけてイベリア半島のみならず、南フランス、南イタリア、ギリシャ・アテネまでも手中に収めることに成功します。バルセロナはアラゴン連合王国の中心都市となり港湾都市として繁栄しました。
アラゴン連合王国とカスティーリャ王国の統合によりスペイン王国が誕生するとカスティーリャ王でハプスブルグ家のシャルル2世が王位に就き首都をマドリードとしたためバルセロナの優位性は下がりました。1700年に国王カルロス2世が亡くなるとフランス・ブルボン朝が王位継承を主張します。これにより本家オーストリア・ハプスブルグ家とのスペイン継承戦争が1701年から1714年に起こりました。バルセロナで3度の包囲戦が行われ、バルセロナは荒廃が進みました。
バルセロナ港
現在も地中海の拠点となる港です。
サンタ・エウラリア大聖堂
1450年に最初の建物が完成した教会です。
スペイン内戦
第一次世界大戦が終結して世界恐慌により世界が混沌としていた1936年から1939年に共和派、社会主義者、共産党からなるスペイン人民戦線政府とフランシスコ・フランコ率いる反乱軍との衝突(スペイン内戦)が起こりました。人民戦線政府の拠点であるバルセロナは戦場となり1939年にフランコ率いる反乱軍の攻撃によりバルセロナは陥落しました。
フランコは独裁政権を確立し、内戦中の敵の本拠地であるカタルーニャに対してカタルーニャ語の使用を禁止するなど厳しい弾圧を行うことでカタルーニャの独立を阻止しようとしました。1975年にフランコが没すると民主化へと変わり政治は好転していき、1992年にはバルセロナでオリンピックが開催されたことで観光に関するインフラ整備によりバルセロナは国際都市としてスペイン随一の観光都市となりました。
カタルーニャ広場
1927年に完成したバルセロナ最大の広場です。
サンタ・カテリナ市場
1847年に修道院跡に建てられた歴史ある市場です。