歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ギリシャのポリスの繁栄

ギリシャ・アテネのジェロニモス修道院

古代ギリシャの人びとは、標高150メートルの小高いアクロポリスの丘にいくつもの神殿を建てたアクロポリスを建造しました。アクロポリスの麓にはアテナイのアゴラと呼ばれる市場が設けられ、買い物をする市場としての機能だけではなく政治や経済、文化の拠点として集会が行われました。信仰の中心がアクロポリスであるのに対して、アゴラは民衆の生活の中心として芸術や哲学は西洋文明の源流となり、現代に至るまで影響を与え続けています。

アクロポリスの建造

アクロポリスは紀元前5世紀頃のペルシア戦争で勝利するも破壊された神殿をペリクレスにより再建された建造物です。門を抜けるとパルテノン神殿などの神殿が建造されています。

プロピレアとアテナ・ニケ神殿

ギリシャ・アテネのアクロポリスのプロピレア

プロピレア

丘の上に建てられるアクロポリスの聖域の入口となる前門はプロピレアと呼ばれ、聖域の入口の意味があります。

ギリシャ・アテネのアクロポリスのアテナ・ニケ神殿

アテナ・ニケ神殿

勝利の女神ニケを祀るアテナ・ニケ神殿には翼の無いニケの像が祀られていました。これは勝利が永遠にアテネから逃げないように市民が翼を切り落としたためと言われています。

パルテノン神殿

アクロポリスの中心であるパルテノン神殿は古代ギリシャ文明の栄光の象徴です。紀元前432年にペリクレスにより建てられたパルテノン神殿は、幅31メートル、奥行き69メートルあります。完成したパルテノン神殿はドーリア式建築の傑作といわれ、戦いの女神アテナを祀る神域であると同時に敵の侵入を防ぐ要塞としての役割も果たしていました。

アクロポリスは1687年にベネチア軍に包囲されたときに神殿の多くが破壊されました。弾薬庫として利用していたパルテノン神殿は爆発を起こして大きく損傷しました。アクロポリスは現在もなお修復が継続されていますが、一生終わらない工事とまで呼ばれるほど長い時間がかかるようです。

ギリシャ・アテネのアクロポリスのパルテノン神殿

パルテノン神殿

神殿の中にはフィディアス作と言われる高さ12メートルの処女のアテナを意味するアテナ・パルテノスの像が鎮座していました。

ギリシャ・アテネのアクロポリスのパルテノン神殿

パルテノン神殿

エレクティオンの右側にあるパルテノン神殿は、アテナ・パルテノスが祀られたことから、パルテノン神殿と呼ばれるようになりました。

ギリシャ・アテネのアクロポリスのパルテノン神殿

パルテノン神殿

高さ10メートルのドーリア式の柱は前後8本と側面17本ずつの計46本あり、エンタシスと呼ばれる工法により見上げたときに均一に見えるように中央が膨らんで微妙に傾けられています。

ギリシャ・アテネのアクロポリスのパルテノン神殿

パルテノン神殿

古代ギリシャの天才彫刻家フィディアスが現場監督を務め、神殿にはペルシア戦争の勝利を象徴した彫刻が施されています。

エレクティオン

パルテノン神殿と向かい合うエレクティオンは、アクロポリスの神殿群で最も新しい紀元前406年に完成しています。パルテノン神殿がドーリア式の傑作であるのに対して、エレクティオン神殿は古代ギリシャ中期の様式であるイオニア式の神殿の代表的遺跡と言われます。

ギリシャ・アテネのアクロポリスのエレクティオン

エレクティオン

アクロポリスの中で最も神聖な神殿で、アテネの守護神の座を争うアテネとポセイドンの2つの神が争う場所であり、アテネの伝説の王の名前に由来して名付けられています。

ギリシャ・アテネのアクロポリスのエレクティオン_カリアティード

エレクティオン

エレクティオンの特徴は乙女の姿をした6体のカリアティードが屋根を支えているところにあります。

ディオニソスの劇場

アクロポリスの南側の麓にあるディオニソス劇場は、紀元前5世紀に丘の斜面を利用して造られたギリシャ最古の劇場です。建設当初は木造でしたがローマ時代の紀元前4世紀に大理石に改修されて1万7千人を収容できるようになりました。

ギリシャ・アテネのディオニソスの劇場

ディオニソスの劇場

アクロポリスの麓に建造された劇場です。ディオニソスとは酒と演劇の神で、ディオニソス劇場はこの神に捧げられました。

ギリシャ・アテネのディオニソスの劇場

ディオニソスの劇場

古代ギリシャの人たちの最大の娯楽施設であり、古代ギリシャ三大悲劇詩人のアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの劇が毎年春に開催されるディオニソス祭で上演されました。

古代アゴラ

古代ギリシャの都市国家アテネは民主主義誕生の地と言われます。古代アゴラはアテネの民衆が集まり、政治や経済、哲学や芸術などの文化的なことを話し合う場所でした。アテネ市民の下には奴隷階級があり、奴隷たちが労働することでアテネ市民は議論する時間を確保していました。

ギリシャ・アテネの古代アゴラ

古代アゴラ

当時のギリシャでは男性が買い物を行い、女性は自宅からほとんど外出することはありませんでした。男性はアゴラに集まると政治や経済、芸術や哲学などについて議論し合いました。

ギリシャ・アテネの古代アゴラ

古代アゴラ

アゴラは市民が政治や哲学などを議論する場所で、かつてソクラテスやプラトンもアゴラで哲学について議論を交わしていたと云われます。

アッタロスの柱廊

古代アゴラにある博物館は、かつてのギリシャ時代の建造物を完全に再現されて建てられました。博物館の前面にあるアッタロスの柱廊は、紀元前2世紀にペルガモン王アッタロスがアテネで学問を学んだ謝礼として寄贈したもので1950年代に復元されたものです。

ギリシャ・アテネの古代アゴラ_アッタロスの柱廊

アッタロスの柱廊

長さ115メートル、奥行き20メートルあるアッタロスの柱廊は、外側のドーリア式の柱と内側のイオニア式の古代ギリシャの異なる時代の柱が並びます。

ギリシャ・アテネの古代アゴラ_アッタロスの柱廊

古代の彫像

回廊の壁側には200年頃に製造されたヘルメスやヘラクレスなどの彫像が展示され、博物館内部には発掘された古代ギリシャの芸術品が展示されています。

ヘファイストス神殿

古代アゴラの丘の上には紀元前460年から415年頃にヘファイストス神殿が建てられました。炎と鍛冶の神とされたヘファイストスが祀られアテネ建設の祖と云われるテセウスゆかりの彫刻が残されています。紀元前88年にローマに敗れたアテネはローマの支配下となり、395年にローマ帝国が東西に分裂すると東ローマ帝国領としてビザンツ文化圏を形成しました。

ギリシャ・アテネの古代アゴラのヘパイストス神殿

ヘファイストス神殿

炎と鍛冶の神ヘファイストスに捧げられた神殿で、パルテノン神殿に比べると小さいですが、ドーリア式の神殿の中で最も原型を留めている神殿です。

ギリシャ・アテネの古代アゴラのヘパイストス神殿

ヘファイストス神殿

キリスト教を基礎とするギリシャ正教が浸透すると、ヘファイストス神殿は7世紀から1834年まで聖ジョージのギリシャ正教会として使用されました。