アテネ

アテネはギリシャの首都で、大帝国として栄えた古代ギリシャ文明の中心都市でした。アクロポリスの丘には紀元前5世紀にパルテノン神殿などの神殿が建造され、今もなお圧倒的な存在感を放ちます。アテネのアクロポリスは1987年に世界遺産に登録されています。
概要
- 面積
- 38.96km2
- 標高
- 70 - 338m
- 人口
- 66.4万 (2011年)
- 地図
特集
歴史
アテネは古代ギリシャの都市国家ポリスのひとつです。王政から始まり世界で初めて民主制が採用されました。マケドニアやローマに支配されてもなお存続しましたが、オスマン帝国の支配下で衰退しました。19世紀にオスマン帝国から独立するとギリシャの首都となりました。
アテネの成立と民主政
古代ギリシャでは紀元前8世紀に都市国家ポリスを形成しました。特に大きなポリスはイオニア人による都市国家アテネとドーリア人の一派スパルタ人の都市国家スパルタでした。都市国家が成立したアテネは王政から始まりましたが、紀元前7世紀に貴族政に移行してアルクメオン家を中心とする貴族が実権を握りました。やがて平民が交易で富を得て軍隊として活躍すると貴族と抗争するようになり、紀元前621年にドラコンがドラコンの立法を制定して平民は貴族から法的に守られるようになりました。
民主政の成立
紀元前594年には軍隊として活動する平民を助けるために借金を帳消しにするなどのソロンの改革が進められ、平民の没落を防止する措置が執られて民主政の法的整備が進みました。アテネの民主制は革新的で多くのポリスでも採用されて民主化しました。紀元前6世紀中期にペイシストラトスにより非合法な手段で権力を奪い、市民の支持を受けて独裁的な支配を行う僭主が現れて僭主政が起こりましたが、紀元前508年のクレイステネスの改革で陶片追放(オストラシズム)で僭主を追放するなどの防止する措置がとられて民主政が成立しました。

アテネ市街
ギリシャ共和国の首都であり、古代ギリシャ文明の中心地として知られる歴史的な都市です。民主主義発祥の地とも言われています。
ペルシア戦争
紀元前6世紀にイラン人が建国したアケメネス朝ペルシアは、中東に大きな勢力を築きました。紀元前500年にペルシアに支配されていたイオニア地方の都市国家ミレトスは反乱を起こし、紀元前499年にアテネが支援したことでペルシア戦争に発展しました。
西洋的民主主義の勝利
480年にペルシア帝国クセルクセスがギリシャに侵攻し、アテネ海軍とスパルタ陸軍はペルシアと戦いました。アテネ海軍のテミストクレスはサラミスの海戦で三段櫂船を巧みに利用して勝利し、翌479年にはスパルタ陸軍がプラタイアの戦いでペルシア軍を破りました。この戦いは西洋的民主主義が東洋的専制君主制に勝利した意義深いものとなりました。

マラトンの戦い
紀元前490年のマラトンの戦いではアテネの重装歩兵が活躍してペルシア軍を撃退し、この戦いの勝利をアテネまで伝令したことがマラソンの始まりと言われます。

三段櫂船
トライリームとも呼ばれる軍用船で、3段に漕ぎ手が配置されています。強力な推進力で、当時の船としては非常に高い速度と優れた機動性を誇りました。
アテネ帝国
ペルシア戦争に勝利したアテネは、紀元前478年にデロス同盟を結成して周囲のポリスを吸収して勢力を大きく拡大しました。紀元前454年にデロス島に置かれていた同盟の金庫はアテネに移され、その他の都市国家ポリスに対してアテネの守護女神アテナに対する貢納金を課税しました。デロス同盟においてアテネが金庫を管理してアテネ市民のみ市民権が認められました。こうした支配によりアテネ帝国と呼ばれるようになりました。
ペリクレスとアテネの繁栄
紀元前443年に民会において将軍職(ストラテーゴス)に選ばれたペリクレスは、アテネの大国化と民主化を進めました。この時代はアテネ民主政の全盛期を迎えており、強大な海軍力を背景に他のポリスに対して優位に物事を進めていました。ペリクレスはフェイディアスらに命じてアクロポリスの丘にパルテノン神殿を新たに建造しました。

アクロポリスの丘
アテネで最も高いところにあり、城塞として使用されていましたが、紀元前5世紀のペルシア戦争のあとに古代アテネの神殿が建造されて信仰の中心となりました。

パルテノン神殿
紀元前5世紀にアテネの守護神アテナを祀るためにペリクレスにより建造された神殿で、ドーリア式の建築を代表する傑作です。
アテネの衰退
ペロポネソス半島南端の都市国家スパルタは、アテネの大国化に対して危機感を抱きました。やがてアテネとの対立が表面化し、紀元前431年にペロポネソス戦争へと発展しました。アテネの将軍ペリクレスは城壁を築いて籠城しますが、疫病が蔓延して市民の3分の1が病死し、自らも罹患して死亡しました。紀元前421年にニキアスの平和と呼ばれる調停を結びますが、アテネの将軍アルキビアデスがシチリア島遠征に失敗し、スパルタがペルシア帝国と同盟を結んで海軍を増強したため、紀元前404年にアテネ海軍がスパルタ海軍に敗れて全面降伏しました。
アテネの混乱期
アテネはスパルタの指導に従う条件で独立は保ちますが、在外資産と海外領のすべてを失いギリシャの覇権が失われました。スパルタ駐留軍の支援を受けたクリティアスなどの三十人僭主は、独裁政権を確立してアテネの貴族や富裕層を粛清して財産を奪い、紀元前399年にはソクラテスが死刑になるなど混乱が続きました。民主派アニュトスは亡命先からアテネに戻り激しい内戦を起こし、紀元前403年に民主政が復活しました。紀元前395年からアテネはテーベと同盟してスパルタとコリントス戦争を起こし、紀元前371年にはアテネが支援するテーベがレウクトラの戦いでスパルタに勝利しました。

ペリクレス
ペリクレスの葬儀演説を描いています。ペリクレスは紀元前5世紀に活躍した古代アテネの政治家で、ペリクレスの指導でアテネは黄金期を迎えました。

古代アゴラ(アテナイのアゴラ)
アテネの政治、商業、社会生活の中心地で、アテネ市民が商業取引や哲学の議論などを行いました。ソクラテスやプラトンらもここで議論したとされます。
マケドニア王国の支配
紀元前3世紀にマケドニア王国フィリッポス2世がギリシャに南下してくると、アテネはテーベとともに対抗しました。紀元前338年にカイロネイアの戦いでマケドニアに敗れると、マケドニアはコリントス同盟を組織してスパルタを除く全ギリシャのポリスを組み込んでポリスを支配しました。紀元前336年にフィリッポス2世が暗殺されるとアリストテレスを家庭教師としていたアレクサンドロスが王位を継承しました。
アテネの民主制崩壊
アレクサンドロス大王は生涯のほとんどを東方遠征に費やし、紀元前330年にペルシアを滅亡に追い込んで版図をイランなどまで広げました。紀元前323年にアレクサンドロス大王が急死するとアテネはマケドニアと戦いますが、アテネは敗れて民主制は完全に崩壊しました。紀元前301年にアテネで市民皆兵制が廃止され、志願兵と傭兵が担うようになりました。

フィリッポス2世暗殺
紀元前4世紀に活躍したマケドニア国王フィリッポス2世は、コリントス同盟でアテネなどポリスを支配下に置きましたが、紀元前336年に暗殺されました。

アレクサンドロス大王
アリストテレスから教授されたアレクサンドロスは、フィリッポス2世の遺志を継いで広大な帝国を築き、ヘレニズム文化を広めました。
マケドニア戦争とローマ支配
紀元前3世紀に急速に成長したローマは、紀元前2世紀にマケドニア王国が支配するギリシャに攻め込んでマケドニア戦争となりました。マケドニア戦争は第4次まで行われ、ローマと結んだアテネは独立を維持しました。紀元前88年に小アジアのポントス王の反乱から始まるミトリダテス戦争でアテネは反ローマ側に加わりましたが、将軍スラの率いるローマ軍の報復的攻撃を受けて破壊され、アテネの政治的独立は終わりました。
ローマに与えた影響
アテネはローマ属州アカイアの一部に組み込まれましたが、ローマ文化に大きな影響を与えたストア派哲学の拠点として哲学や美術などでローマ文化に直接的影響を及ぼし続けました。五賢帝のひとりハドリアヌスはアテネを訪れて公共建築物などを建造するなど復興に力を入れましたが、やがて経済の中心がエジプトのアレクサンドリア、政治の中心がコンスタンティノープルに移りアテネは衰退しました。

ローマン・アゴラ
アウグストゥス帝の時代に古代アゴラから市場機能を分離して、新たな商業と行政の中心地として建設されました。

ハドリアヌス凱旋門
131年に五賢帝のひとりハドリアヌス帝を称えたコリント様式の大理石の門で、アテネの旧市街とハドリアヌスが新たに建設した新市街を分ける役割がありました。
ビザンツ帝国の衰退と滅亡
395年にローマ帝国が東西に分裂すると、アテネを含むギリシャは東ローマ帝国領としてビザンツ文化圏を形成しました。ローマ帝国の国教であるキリスト教がギリシャ正教として浸透しました。イスラム勢力セルジューク朝が台頭すると、1071年にビザンツ帝国はセルジューク朝に敗れて現在のトルコ地域を失いました。これを受けてヨーロッパ諸国は十字軍を派遣して領土を取り戻し、1205年にアテネ公国が置かれました。
オスマン帝国の支配
十字軍の衰えとペストの流行でビザンツ帝国は衰退すると、1453年にセルジューク朝に代わり台頭したオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼしました。ギリシャ全土はオスマン帝国の支配下となり、1456年にアテネ公国もメフメト2世に降伏してオスマン帝国に組み込まれました。オスマン帝国の支配下でアテネは急速に衰退し、1638年から始まる大トルコ戦争でパルテノン神殿が爆発する事故が起こりました。

アギイアポストリ教会
10世紀に建築されたビザンティン様式の教会で、アテネで最初の聖堂です。十字架を模したドーム型の構造が特徴で、ドームや壁にフレスコ画が描かれています。

ハドリアヌスの図書館
132年にローマ皇帝ハドリアヌスが建設した大規模な図書館で、オスマン帝国時代は総督官邸として使用されました。
ギリシャ戦争
18世紀に古代ギリシャの芸術や哲学が再評価された新古典主義が流行しました。フランス革命で民族ごとに国家を形成する民族主義が唱えられると、ギリシャでもオスマン帝国から独立しようする動きが生まれました。1821年に秘密結社フィリキエテリアがオスマン帝国に対してギリシャ革命を起こし、国民が各地で蜂起したことでギリシャ独立戦争となりました。
オリンピックの開催
1830年にギリシャは独立を果たし、1896年には古代オリンピックの精神を復活させた国際オリンピック大会が開催されました。第一次世界大戦や第二次世界大戦が起こりましたが、2004年に国際オリンピック大会がアテネで開催されています。

ギリシャ議会議事堂
1834年にアテネは首都となり、1843年にはギリシャ王室の宮殿が建てられました。現在は国会議事堂として使用されています。

ミトロポレオス大聖堂
1862年に建造されたアテネの守護聖人フィロセイとコンスタンディヌーポリ総主教グリゴリオスを祀る教会で、大統領就任式など国家的行事が行われます。
