歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

アテネ

ギリシャ・アテネのアクロポリス

アテネはギリシャの首都で、大帝国として栄えた古代ギリシャ文明の中心都市でした。アクロポリスの丘には紀元前5世紀にパルテノン神殿などの神殿が建造され、今もなお圧倒的な存在感を放ちます。アテネのアクロポリスは1987年に世界遺産に登録されています。

概要

面積
38.96km2
標高
70 - 338m
人口
66.4万 (2011年)
地図

特集

ギリシャ・アテネの古代アゴラ

ギリシャのポリスの繁栄

小高いアクロポリスの丘にいくつもの神殿を建てたアクロポリスを建造しました。アクロポリスの麓にはアテナイのアゴラが設けられて政治や経済、文化の拠点として集会が行われました。

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ギリシャ・アテネのローマンアゴラと風の塔

ローマ時代のアテネ遺跡

ローマ軍の攻撃を受けて破壊されたアテネは、ローマ帝国の属州アカイアの一部に組み込まれ、ローマ文化に大きな影響を与えたストア派哲学の拠点として存在しました。

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歴史

アテネは古代ギリシャの都市国家ポリスのひとつです。王政から始まり世界で初めて民主制が採用されました。マケドニアやローマに支配されてもなお存続しましたが、オスマン帝国の支配下で衰退しました。19世紀にオスマン帝国から独立するとギリシャの首都となりました。

アテネの成立と民主政

古代ギリシャでは紀元前8世紀に都市国家ポリスを形成しました。特に大きなポリスはイオニア人による都市国家アテネとドーリア人の一派スパルタ人の都市国家スパルタでした。都市国家が成立したアテネは王政から始まりましたが、紀元前7世紀に貴族政に移行してアルクメオン家を中心とする貴族が実権を握りました。やがて平民が交易で富を得て軍隊として活躍すると貴族と抗争するようになり、紀元前621年にドラコンがドラコンの立法を制定して平民は貴族から法的に守られるようになりました。

民主政の成立

紀元前594年には軍隊として活動する平民を助けるために借金を帳消しにするなどのソロンの改革が進められ、平民の没落を防止する措置が執られて民主政の法的整備が進みました。アテネの民主制は革新的で多くのポリスでも採用されて民主化しました。紀元前6世紀中期にペイシストラトスにより非合法な手段で権力を奪い、市民の支持を受けて独裁的な支配を行う僭主が現れて僭主政が起こりましたが、紀元前508年のクレイステネスの改革で陶片追放(オストラシズム)で僭主を追放するなどの防止する措置がとられて民主政が成立しました。

ギリシャ・アテネ市街

アテネ市街

アレオパゴスの丘からの眺めです。

ギリシャ・アテネ市街

アテネ市街

古代遺跡と調和がとれた町並みです。

ペルシア戦争とアテネの発展

紀元前6世紀にイラン人(ペルシア人)が建国したアケメネス朝ペルシア(ペルシア帝国)は中東に大きな勢力を築きました。ペルシアに支配されていたエーゲ海に面したイオニア地方にある都市国家ミレトスは紀元前500年にペルシアに反乱を起こし、紀元前499年にアテネが支援したことでペルシア戦争に発展しました。紀元前490年のマラトンの戦いではアテネの重装歩兵が活躍してペルシア軍を撃退し、この戦いの勝利をアテネまで伝令したことがマラソンの始まりと言われます。

480年にペルシア帝国クセルクセスがギリシャに侵攻すると、アテネとスパルタは手を組みアテネは海軍でスパルタは陸軍でペルシアと戦います。アテネ海軍のテミストクレスはサラミスの海戦で三段櫂船を巧みに利用して勝利し、翌479年にはスパルタ陸軍がプラタイアの戦いでペルシア軍を破りました。この戦いは西洋的民主主義が東洋的専制君主制に勝利した意義深いものとなりました。

マラトンの戦い

マラトンの戦い

この戦勝報告の伝令がマラソンの起源となります。

三段櫂船

三段櫂船

アテネ海軍は三段櫂船を巧みに利用して勝利しました。

アテネ帝国とペリクレス

ペルシア戦争に勝利したアテネは、紀元前478年にデロス同盟を結成して周囲のポリスを吸収して勢力を大きく拡大しました。紀元前454年にデロス島に置かれていた同盟の金庫はアテネに移され、その他の都市国家ポリスに対してアテネの守護女神アテナに対する貢納金を課税しました。デロス同盟においてアテネが金庫を管理してアテネ市民のみ市民権が認められました。こうした支配によりアテネ帝国と呼ばれるようになりました。

紀元前443年に民会において将軍職(ストラテーゴス)に選ばれたペリクレスは、アテネの大国化と民主化を進めました。この時代はアテネ民主政の全盛期を迎えており、強大な海軍力を背景に他のポリスに対して優位に物事を進めていました。こうした時代において、ペリクレスはフェイディアスらに命じてアクロポリスの丘にパルテノン神殿を新たに建造しました。

ギリシャ・アテネのアクロポリスの丘

アクロポリスの丘

神殿が建造されて信仰の中心となりました。

ギリシャ・アテネのパルテノン神殿

パルテノン神殿

ペリクレスによりパルテノン神殿が建造されました。

アテネの衰退

ギリシャのペロポネソス半島南端にあるスパルタは、アテネの大国化に対して危機感を抱きました。やがてアテネとの対立が表面化して紀元前431年にペロポネソス戦争へと発展しました。アテネのペリクレスは城壁を築いて籠城しますが、これが仇となり市民の3分の1が病死する疫病が流行して自らも罹患して死亡しました。紀元前421年にニキアスの平和と呼ばれる停戦になりますが、アテネの将軍アルキビアデスがシチリア島遠征に失敗し、スパルタがペルシア帝国と同盟を結び海軍を増強したため、紀元前404年にアテネ海軍がスパルタ海軍に敗れて全面降伏しました。

スパルタに敗れたアテネは在外資産と海外領のすべてを失い、スパルタの指導に従う条件で独立は保ちますがギリシャの覇権は失われました。スパルタ駐留軍の支援を受けたクリティアスなどの三十人僭主は独裁政権を確立してアテネの貴族や富裕層を粛清して財産を奪いました。こうした中で紀元前399年にはソクラテスが死刑になるなど混乱が続きました。民主派アニュトスは亡命先からアテネに戻ると激しい内戦を起こし、紀元前403年に民主政が復活しました。アテネはテーベと同盟して紀元前395年からスパルタに対してコリントス戦争を起こし、紀元前371年にはアテネが支援するテーベがレウクトラの戦いでスパルタに勝利しました。

ペリクレス

ペリクレス

ペリクレスの葬儀演説を描いています。

ギリシャ・アテネの古代アゴラ(アテナイのアゴラ)

古代アゴラ(アテナイのアゴラ)

アテネ市民が集い政治、経済、哲学などを議論しました。

マケドニア王国の支配

紀元前3世紀にマケドニア王国フィリッポス2世がギリシャに南下してくると、アテネはテーベとともに対抗します。紀元前338年にカイロネイアの戦いでマケドニアに敗れると、マケドニアはコリントス同盟を組織してスパルタを除く全ギリシャのポリスを組み込んでポリスを支配しました。紀元前336年にフィリッポス2世が暗殺されるとアリストテレスを家庭教師としていたアレクサンドロス(アレキサンダー)が王位を継承しました。

アレクサンドロス大王は生涯のほとんどを東方遠征に費やし、紀元前330年にペルシアを滅亡に追い込んで版図をイランなどまで広げました。紀元前323年にアレクサンドロス大王が急死するとアテネはマケドニアと戦いますがアテネは敗れて民主制は完全に崩壊しました。紀元前301年にアテネで市民皆兵制が廃止され志願兵と傭兵が担うようになりました。

フィリッポス2世暗殺

フィリッポス2世暗殺

コリントス同盟でアテネなどを支配下にしました。

アレクサンドロス大王

アレクサンドロス大王

アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス大王です。

マケドニア戦争とローマ支配

紀元前3世紀に急速に成長したローマは、紀元前2世紀にマケドニア王国が支配するギリシャに攻め込みマケドニア戦争が戦われました。マケドニア戦争は第4次まで行われ、ローマと結んだアテネは、マケドニアが滅亡した紀元前167年以降も独立を維持しました。紀元前88年に小アジアのポントス王の反乱から始まるミトリダテス戦争でアテネは反ローマの戦線に加わりましたが、将軍スラの率いるローマ軍の報復的攻撃を受けて破壊され、アテネの政治的独立は終わりました。

ローマ帝国に支配されたアテネは属州アカイアの一部に組み込まれましたが、ローマ文化に大きな影響を与えたストア派哲学の拠点として哲学や美術などでローマ文化に直接的影響を及ぼし続けました。五賢帝のひとりハドリアヌスはアテネに訪れて公共建築物などを建造するなど復興に力を入れましたが、やがて経済の中心がエジプトのアレクサンドリア、政治の中心がコンスタンティノープルに移りアテネは衰退しました。

ギリシャ・アテネのローマン・アゴラ

ローマン・アゴラ

ユリウス・カエサルらの献金で造られました。

ギリシャ・アテネのハドリアヌス凱旋門

ハドリアヌス凱旋門

五賢帝のひとりハドリアヌスを称えた凱旋門です。

ビザンツ帝国とオスマン帝国の支配

395年にローマ帝国が東西に分裂するとアテネを含むギリシャは東ローマ帝国領となりビザンツ文化圏を形成しました。東ローマ帝国はビザンツ帝国とも呼ばれますが、キリスト教を国教とするローマ帝国によりギリシャ正教として浸透しました。イスラム勢力セルジューク朝が台頭すると1071年にビザンツ帝国はセルジューク朝に敗れて現在のトルコ地域を失いました。これを受けてヨーロッパ諸国は十字軍を派遣して領土を取り戻しアテネには1205年にアテネ公国が造られます。

十字軍の遠征は次第に衰えて、さらにペストの流行もありビザンツ帝国は衰退していきました。そこにセルジューク朝に代わり台頭したオスマン帝国は1453年にビザンツ帝国を滅亡に追い込みギリシャ全土がオスマン帝国の支配下となり、アテネ公国も1456年にメフメト2世に降伏してオスマン帝国に組み込まれました。オスマン帝国の支配下でアテネは急速に衰退して1638年から始まる大トルコ戦争の途中で火薬の貯蔵庫として使われていたパルテノン神殿が爆発する事故が起こりました。

ギリシャ・アテネのアギイアポストリ教会

アギイアポストリ教会

ビザンツ帝国下のアテネで最初の聖堂です。

ギリシャ・アテネのハドリアヌスの図書館

ハドリアヌスの図書館

オスマン帝国時代は総督官邸として使用されました。

アテネの復興と現在

18世紀になると古代ギリシャの芸術や哲学が再評価された新古典主義が流行し、フランス革命により民族ごとに国家を形成する民族主義が唱えられると、ギリシャでもオスマン帝国から独立しようする動きが生まれます。1821年に秘密結社フィリキエテリアがオスマン帝国に対してギリシャ革命を起こし、国民が各地で蜂起したことでギリシャ独立戦争となりました。

ギリシャ独立戦争はイギリス、ロシア、フランスが介入して1830年にギリシャは独立を果たしました。1896年には古代オリンピックの精神を復活させた第1回の国際オリンピック大会が開催されました。第一次、第二次世界大戦が終了した2004年にも国際オリンピック大会が開催されています。

ギリシャ・アテネのギリシャ議会議事堂

ギリシャ議会議事堂

1834年にアテネは首都となり、1843年にはギリシャ王室の宮殿が建てられました。現在は国会議事堂として使用されています。

ギリシャ・アテネのミトロポレオス大聖堂

ミトロポレオス大聖堂

1862年に建造されたアテネの守護聖人フィロセイとコンスタンディヌーポリ総主教グリゴリオスを祀る教会で、大統領就任式など国家的行事が行われます。