歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ビエンチャン

ラオス・ビエンチャンのアヌサーワリー・パトゥーサイ

ビエンチャンはラオスの首都で月の都城を意味します。古くから上座部仏教が盛んで16世紀に建てられた国のシンボルである黄金寺院タートルアンを始めとする多くの仏教寺院があります。フランス植民地時代に建造された数多くの建築物が残されています。

概要

面積
3,920km2
標高
174m
人口
94.85万 (2020年)
地図

歴史

ラオスの首都ビエンチャンは、ルアンプラバンを都としたラーンサーン王国のもとで発展しました。フランスの植民地下に置かれましたが、第二次世界大戦後に独立を果たして首都となりました。ラオスの凱旋門と言われるアヌサーワリー・パトゥーサイは、ラオス内戦の終結とラオス国の勝利を記念して建てられました。

ラーンサーン王国の成立

ラオスの国家成立は、1353年にファーグム王がルアンプラバンを都とするラーンサーン王国を建国したことに始まります。ラーンサーン王国は、タイのアユタヤ朝、カンボジアのアンコール朝、ベトナムの黎朝がと抗争しながらも象牙、漆、香料、犀の角などの交易で栄え、16世紀に最盛期を迎えました。18世紀に北部のルアンプラバン、中部のビエンチャン、南部のチャンパサックの3つに分裂したことで、タイなど周辺の介入を受けて衰退していきました。

タート・ルアン

タート・ルアンはラオス最高峰の寺院で、ラオスの国章に描かれています。紀元前3世紀に仏陀の胸骨を納めるため、インドから派遣された僧侶が建立したと言われています。高さ45メートルの黄金の仏塔には仏舎利(仏陀の遺骨)が納められています。

ラオス・ビエンチャンのセーターティラート王像

セーターティラート王

ラーンサーン王国第18代国王で、16世紀にルアンプラバンからビエンチャンに遷都し、荒廃していたタート・ルアンを再建しました。

ラオス・ビエンチャンのタート・ルアン

タート・ルアン

ラオス国章にも描かれるシンボル的な仏塔です。再建当初は四方を四つの寺院に囲まれる形でしたが、1828年のタイの侵攻で損傷して北と南の寺院が残るのみです。

ラオス・ビエンチャンのタート・ルアン_涅槃像

涅槃像

微笑んでいる顔が特徴的で、この前に広がるタートルアン広場は、参拝者が蓮の花、蝋燭、線香などを手に持ちながら仏塔を3周回り仏前に供える風習があります。

ラオス・ビエンチャンのタート・ルアン・ヌア

タート・ルアン・ヌア

タート・ルアンの北部にある寺院で、ラオス仏教界最高位の僧侶が住まいとしています。寺院内部にはラオス様式の美しい仏像や壁画が安置されています。

タイによる支配

1778年にはビエンチャンはタイ・トンブリー朝のタークシン王に征服されたビエンチャンは、続いてラタナコーシン朝に支配されました。19世紀にアヌウォン王が勢力を挽回すると、1827年にイギリス=ビルマ戦争に乗じてタイから独立を試みますが、タイの反撃でアヌウォン王は処刑され、ビエンチャンは徹底的に破壊されました。

ワット・ホーパケオ

1563年にセーターティラート王が王室寺院として建立した寺院で、旧都ルアンプラバンからエメラルド仏が遷されて安置されました。1779年のタイとの戦いで寺院は焼失し、エメラルド仏は持ち去られました。エメラルド仏はバンコクのワット・プラケオに安置されています。

ラオス・ビエンチャンのチャオ・アヌウォン公園

アヌウォン王

ヴィエンチャン王国の最後の国王で、タイ(シャム)からの独立を試みた英雄として知られています。チャオ・アヌウォン公園に銅像が設置されています。

ラオス・ビエンチャンのワット・ホーパケオ

ワット・ホーパケオ

タイの侵攻により破壊されましたが、フランスが1936に再建しました。現在はラオス各地から集められた仏像や仏教美術品を展示する博物館です。

フランス植民地時代

1827年のアヌウォン王の反乱によりビエンチャンはタイに併合され、ルアンプラバンはベトナムの支配下に入りました。この頃、フランスはインドシナ半島への侵出を進め、ベトナムやカンボジアを保護国化して植民地にしました。フランスはラオスとタイの国境が確定していないことを口実にラオスの領有をタイに通告し、1899年にラオスはフランス領インドシナ連邦に組み込まれました。

ラオス・ビエンチャン市街

ビエンチャン市街

南シナ海をイギリスが抑えていたことからフランスはラオスを植民地化し、メコン川を利用して中国との交易路を確保しようと考えました。

ラオス・ビエンチャン市街

メコン川

落差の大きいコーン瀑布などの難所が多く交易路にはなりませんでした。ラオスは平地が少なく資源もないため、ほとんど開発されませんでした。

ラオスの独立

第二次世界大戦で日本軍がラオス国内に侵攻すると、ラオス国民に独立の意識が芽生えました。日本軍がラオスから撤退するとフランスは再び植民地支配しようとしますが、ラオスの人びとは自由ラオスを結成して民族独立を目指しました。1946年にフランスはルアンプラバン王家を国王とするラオス王国に自治を与え、1949年にフランスとの協同国として独立しました。フランスからの完全独立を目指す自由ラオスは、1950年にラオス自由戦線を結成し、のちにラオス愛国戦線(パテート・ラーオ)としてラオス王政を廃止して完全独立を図りました。

ディエンビエンフーの戦い

隣国のベトナムでは、フランスからの独立を目指して激しいインドシナ戦争を繰り広げました。ホーチミン率いるベトナム民主共和国軍は戦いを優位に進めたため、1953年にフランスはラオス王国を完全独立させて懐柔を図りますが、1954年にディエンビエンフーの戦いでフランスは敗れてインドシナから撤退しました。

ラオス内戦

フランスがインドシナから撤退すると、アメリカがラオスに軍事介入するようになりました。アメリカはラオス王国政府を支援してラオス愛国戦線の鎮圧を図り、ラオスは王党派とラオス愛国戦線の内乱状態となりました。ベトナムではアメリカが軍事介入してベトナム戦争となり、ラオス愛国戦線は南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を支援したため、1971年にアメリカがラオスに侵攻しました。アメリカのラオス侵攻は反米意識と民族独立の気運を高め、1973年にラオス政府とラオス愛国戦線で臨時民族連合政府が合意し、翌年にラオス民族連合政府が成立して内戦が終結しました。

ラオス・ビエンチャンのラーンサーン通り

ラーンサーン通り

フランスの植民地時代に建設された通りで、パリのシャンゼリゼ通りをモデルにしたと言われています。その先にラオスの凱旋門であるパトゥーサイがあります。

ラオス・ビエンチャンのアヌサーワリー・パトゥーサイ

アヌサーワリー・パトゥーサイ

ラオス内戦の終結とラオス国の勝利を記念して建造を始めましたが、資金難もあり少しずつ工事が続けられています。

ラオス・ビエンチャンのラオス国家主席府

ラオス国家主席府

ラオスのホワイトハウスと呼ばれる建物で、1973年に王族の住居として着工しましたが、共産主義政権への移行に伴う中断を経て、1986年に完成しました。

ラオス・ビエンチャンのナイトバザール

ナイトバザール

夕方に長さ1キロほど露店が並び、多くの人が通行して混み合います。メコン川沿いではレストランが並び、夕陽を眺めながら料理を楽しむことができます。