ルアンプラバン
ルアンプラバンは、ラオス北部のメコン川とナムカーン川の合流点の谷にあり、ラーンサーン王国の首都が置かれて繁栄しました。ムアン・スアやシェンドーン・シェントーンと名前を変え、現在は旧王宮の庭園に納められている仏像(パバーン仏)に何ちなんで黄金のパバーン仏を意味するルアンプラバンとなりました。1995年に町全体がユネスコ世界遺産に登録されています。
概要
- 面積
- 16,875km2
- 標高
- 305m
- 人口
- 408,800人 (2004年)
- 地図
歴史
ラオスで初めての統一国家ラーンサーン王国の首都が置かれたルアンプラバンは、クメール王朝からパバーン仏が贈られたことで名付けられました。1560年にビエンチャンに遷都されてからはラオス仏教信仰の中心地として栄えています。
古都ルアンプラバン
ラオスにおける統一国家の出現は、1353年にファーグム王がルアンプラバンにラーンサーン王国を建国したことに始まります。ラーンサーン王国とは百万頭の象の王国を意味しています。ルアンプラバンは1357年までムアン・スアと呼ばれ、シェンドーン・シェントーンと地元の人から呼ばれましたが、クメール王朝からスリランカを起源とするパバーン仏が贈られたことで、黄金のパバーン仏という意味のルアンプラバンに名称を変えました。以後、1560年にセタティラート王がビエンチャンに遷都するまで、ルアンパバーンはラーンサーン王国の首都として栄えました。
ルアンプラバン市街
世界遺産に認定された小さな町です。
パバーン仏の祠
クメール王朝から授けられたパバーン仏が祀られます。
ワット・ヴィスンナラート
ヴィスンナラート王の時代のルアンパバーン最古の寺院で、パバーン仏が1715年まで保管されましたが、1887年に中国・黒旗軍の襲撃で焼失しました。
ワット・ヴィスンナラート
1514年にヴィスンナラート王の王妃が建立したタート・パトゥムという仏塔がスイカを半分にした形に似ていることからスイカ寺とも呼ばれました。
ワット・プラマハタート
1548年のラーンサーン王国の時代にセーターティラート王が母親を供養するために建てたと言われるラオス国内でも格式の高い寺院です。
ワット・プラマハタート
プラ・マハタートとは仏陀の遺灰・遺骨などの遺物を意味し、敷地内にある仏塔はラオスの王族や昔の首相の遺骨が納められています。
ビエンチャン遷都
1560年に首都がビエンチャンに遷都すると、ルアンプラバンは王国発祥の聖地として重視され、セーターティラート王が建立したワット・シェントーンが王の戴冠の儀が執り行われるなど宗教的な中心地となりました。ワット・シェントーンは、数度にわたる他国の侵略を受けながらも王家の庇護のもと発展を続けました。
ワット・シェントーン
1560年にラーンサーン王国セーターティラート王が建立した王家の菩提寺で、ラオスで最も美しい寺院と言われています。
マイトーン(黄金の木)
本堂屋根の中央にある黄金の尖塔(ドクソーファー)は寺院の格式の高さを示し、本堂背面の壁には生命の木が描かれています。
ルアンプラバン王国
1694年にスリニャ・ウォンサー王が崩御すると王位継承争いが起こり、ラーンサーン王国はビエンチャン王国、チャンパーサック王国、ルアンプラバン王国の3つに分裂して、1706年にルアンプラバンはルアンプラバン王国の首都となりました。しかし分裂した王朝は弱体化し、タイ・トンブリー朝のタークシン王による侵攻で1778年までにラオス全土をほぼ平定されました。1827年に勢力を挽回したアヌウォン王がタイに反旗を翻しましたが、これに破れてビエンチャンはタイ領、ルアンプラバンはベトナム領となりました。
ワット・セーンスークハラム
1714年のキサラート王時代に建立された黄金の仏塔と立像が祀られる寺院で、ルアンプラバンの中でも規模が大きく、正面の通りでは早朝に托鉢が行われます。
ワット・セーンスークハラム
タイ様式の寺院でしたが、1930年と1957年に改築されてラオス様式の外装に塗り直されました。近くにメコン川が流れるため、寺院の端には長い船が奉納されています。
ワット・マイ・スワナプームマー
1796年に建立され1821年マンタトゥラート王の時代に修復された寺院で、地元ではワット・マイの通称で親しまれています。
ワット・マイ・スワナプームマー
70年かけて建てられた5層に重なる赤い屋根が特徴で、内部はヴェッサンタラ王の布施の物語や地元の人たちの暮らしが描かれた黄金の壁画があります。
ワット・タートルアン
ルアンプラバン王国のマンタトゥーラート王が1818年に建立した由緒ある寺院です。本堂と二つの仏塔で構成され、仏塔には歴代の王の遺灰が納められています。
ワット・タートルアン
1975年のラオス民主共和国が樹立する前には、王室の火葬場として使われていました。境内には蛇神(ナーガ)が仏陀を守る像が安置されています。
フランス領インドシナ連邦
19世紀後半になると、フランスのナポレオン3世のインドシナ出兵によりベトナム・カンボジアがフランスの植民地化されました。さらにフランスはインドシナでの影響を強めて、1893年にタイがラオスの宗主権を放棄することとなり、1899年にラオスはフランス領インドシナ連邦に組み入れられて植民地支配されました。1909年にフランスとラオスの友好の象徴として、シーサワンウォン王の宮殿として建てられました。
サッカリン通り
たくさんの寺院が並ぶ通りには、フランス植民地時代のコロニアル建築の建物も多く建ち並んでいます。
ルアンプラバン王宮博物館
シーサワンウォン王の宮殿として建てられた当時のフランスの建築様式とラオスの伝統的な建築様式が融合した建物で、1975年に王制が廃止されて博物館となりました。
第二次世界大戦の余波
1945年に日本によるラオス進駐が進められますが、日本が敗戦して日本の武装解除を求めた中華民国のラオスに進駐を進めました。再びインドシナを植民地化するためフランスが介入を始めて第一次インドシナ戦争となり、ルアンプラバンはフランスに占領されました。フランスは親仏派のシーサワンウォン王を国王とするラオス王国を認め、内政の自治権を与えました。
ラオス内戦
ラオスは1954年のジュネーブ協定で中立を保証されていましたが、隣国ベトナムで北ベトナムと南ベトナムが争う情勢に影響されて、北ベトナムが支援するパテート・ラーオがラオス東部にホーチミン・ルートを確保しました。アメリカはラオスに介入してラオス王国を支援し、パテート・ラーオとのラオス内戦となりました。これによりラオスは激しい爆撃にさらされ、今もなお不発弾が残されています。1973年に各勢力が停戦協定を結び、パテート・ラーオが政権をとりラオス人民民主共和国が成立しました。
シーサワンウォン通り
日中は一般的な通りですが、毎日18時から22時にナイトマーケットが開かれます。
ナイトマーケット
夕方になるとテントが並び、モン族が作った布製品を中心にたくさんの雑貨が並びます。雨天でもマーケットは継続して続けられます。
ワット・パバート・タイ
ラオスとベトナムの建築様式が融合した寺院で大変珍しい外観をしています。敷地内には瞑想に使われるメインホールや、涅槃像を納めた横長の建物などがあります。
ワット・パバート・タイ
寺院の裏にある階段を下るとメコン川に広がる絶景が見渡せます。また日没の時間帯は僧侶たちの読経とメコン川に沈む夕日が良い雰囲気を出します。