歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

アヌラーダプラ

スリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ精舎

アヌラーダプラは、スリランカ北中部州の州都です。スリランカ最古のシンハラ王朝の都が置かれ、インドから伝来した仏教を基盤として、政治、経済、宗教の中心地として栄えました。1982年にユネスコの世界遺産に登録されています。

概要

面積
7,179km2
標高
81m
人口
5.06万 (2012年)
地図

歴史

紀元前5世紀に北インドから移住したアーリア系シンハラ人は、初めての王朝となるアヌラーダプラ王国を建国しました。紀元前4世紀に仏教が伝来して上座部仏教が発展し、4世紀にシンハラ王朝の王権の証となる仏歯を授かりました。シンハラ王朝は南インドのタミル人勢力と争いましたが、11世紀にアヌラーダプラからポロンナルワに遷都されて衰退しました。

シンハラ王国

紀元前500年頃に北インドからアーリア系シンハラ人が移住し、ヴィジャヤ王子がシンハラ王朝を建てたとされます。ヴィジャヤ王は獅子の子孫という伝説があり、かつてスリランカは獅子国(シンハラドヴィーバ)と呼ばれ、スリランカの象徴として獅子が国旗に描かれました。アヌラーダプラの町はシンハラ王国の大臣アヌラーダが築き、のちにパンドゥカーバヤ王が首都と定めました。

スリランカ仏教の誕生

紀元前4世紀に北インドのマウリヤ朝で仏教が盛んになると、紀元前240年ごろにアショーカ王が王子マヒンダをスリランカに派遣して仏教を伝えました。デヴァナンピヤ・ティッサ王は仏教に帰依し、マヒンダに仏教の布教を認めました。

マヒンダ王子の布教

仏教に帰依したデヴァナンピヤ・ティッサ王は、イスルムニヤの岩を刳り抜いてアヌラーダプラ最古の僧院を創建してマヒンダ王子の布教を助けました。マヒンダ王子は女性仏教徒のため、妹のサンガミッタ王女を呼び、ブッダガヤの菩提樹の枝木を持参させました。マヒンダ王子はイスルムニヤやヴェッサギリヤで布教を行い、スリランカの地で亡くなりました。

スリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ精舎

イスルムニヤ精舎

マヒンダ王子が布教した僧院は、2世紀頃にイスルムニヤ精舎となりました。ロック・テンプルとも呼ばれ、王族にまつわる石像があることでも知られています。

スリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ精舎

イスルムニヤ精舎

アヌラーダプラは海のシルクロードの要衝として栄えました。上座部仏教の中心地として、5世紀初めに中国の高僧法顕が仏典を求めて渡来しています。

スリランカ・アヌラーダプラのヴェッサギリヤ遺跡

ヴェッサギリヤ遺跡

ヴェッサギリヤは平民(ヴァイシャ)の丘(ギリ)から名付けられました。5世紀のカシャパ王の統治時代に拡張され、500人の平民が修行をしていたと言われます。

スリランカ・アヌラーダプラのヴェッサギリヤ壁画

ヴェッサギリヤ壁画

ヴェッサギリヤ遺跡の岩窟では多くの僧侶が苦行しました。岩窟の中には保存状態は良くありませんが、当時の壁画がかすかに残されています。

スリランカ・アヌラーダプラのスリー・マハー菩提樹

スリー・マハー菩提樹

王女サンガミッタが持参した菩提樹はデヴァナンピヤ・ティッサ王がアヌラーダプラに植樹しました。これが世界最古の植樹で、菩提樹は上座部仏教の聖地として崇められています。

タミル人の侵攻

紀元前2世紀にタミル人勢力のチョーラ朝やパーンディヤ朝が侵攻するようになりました。ドゥッタガマーニ王はタミル人勢力の侵略を阻止し、世の戦いは世のためでなく仏教のためであるとの名言を残し、シンハラ民族の祖と言われました。その後もアヌラーダプラはタミル人勢力と争奪が繰り返され、紀元前1世紀にはワッタガーマニー・アバヤ王がタミル人勢力に追われてタンブッラで再起を図り、5世紀にはダートゥセーナ王がアヌラーダプラを奪還しています。

スリランカ・アヌラーダプラのルワンウェリ・サーヤ大塔

ルワンウェリ・サーヤ大塔

ドゥッタガマニー王が建造をはじめて弟サッダーティッサ王が完成させました。スリランカ2番目の大きさを誇る高さ86メートルの仏塔は、建造当初は100メートルを超えていました。

スリランカ・アヌラーダプラのルワンウェリ・サーヤ大塔

ルワンウェリ・サーヤ大塔

20世紀以降に大規模な改修が行われて白く輝く姿になりました。世界三大煉瓦建築の一つと言われる大塔には仏舎利が納められ、上座部仏教の聖地として敬虔な仏教徒が多く訪れます。

スリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤの恋人

イスルムニヤの恋人

紀元前2世紀にドゥッタガマーニ王の息子サリヤ王子は低カーストの乙女アソカマラと駆け落ちしました。サリヤ王子は社会規範に反して愛のために王室の地位を放棄しました。

大乗仏教と仏歯

3世紀にインドから進歩的な大乗仏教が伝わると、マハーセーナ王は上座部仏教と大乗仏教の対立を恐れ、ジェータヴァナ寺院を中心としたジェータヴァナ・ヴィハーラ派を創始し、上座部仏教のアヌラーダプラ・マハーヴィハーラ派や大乗仏教のアバヤギリ・ヴィハーラ派との均衡を保つようにしました。4世紀の始めインド・カリンガ国が戦争で苦境に立たされると、カリンガ国のヘママリ王女とダンサ王子が仏陀の歯を髪の中に隠してスリランカに持ち込みました。仏歯はシンハラ王朝の王権の証となり、王都が遷都される度に一緒に移されました。

シーギリヤへの一時遷都

タミル人勢力をアヌラーダプラから奪還したダートゥセーナ王は、平民出身の側室の子である長男カシャパではなく、王族の血筋があるモッガラーナに王位継承を考えていました。カシャパは自分が正当な後継者として父ダートゥセーナ王を殺害して王位を奪い、異母兄弟のモッガラーナを南インドに追放しました。カシャパはモッガラーナの復讐を恐れてシーギリヤを王都とし、断崖のシーギリヤ・ロックに宮殿を建てましたが、王位継承からわずか11年でモッガラーナに破れて王都はアヌラーダプラに戻されました。

スリランカ・アヌラーダプラのヴェッサギリヤ碑文

ヴェッサギリヤ碑文

父殺しの不名誉な称号を与えられたカシャパですが、碑文にはイスルムニヤとヴェッサギリヤにたくさんの土地を贈り庵を建てたと記述されているようです。

ポロンナルワ遷都

南インドのチョーラ朝ラージャラージャ1世は、パーンディヤ朝を制圧してスリランカに侵攻しました。1017年にアヌラーダプラは放棄されてポロンナルワに遷都しますが、王がチョーラ朝に捕らえられてポロンナルワもチョーラ朝に支配されました。その後もタミル人勢力とシンハラ王朝は抗争を繰り返しますが、13世紀末にタミル人はジャフナ王国をセイロン島北部に建国しました。