歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

マータレー

スリランカ・マータレーのダンブッラ石窟寺院

マータレーは、スリランカの中部州マータレー県の都市です。スリランカのほぼ中央に位置するため、キャンディとセイロン島北部を結ぶ交通の要衝として栄えました。巨大な岩に要塞宮殿が築かれた古都シギリヤは、1982年に世界遺産に登録されました。

概要

面積
70.01km2
標高
364m
人口
不明
地図

歴史

セイロン島の南北を結ぶ交通の要衝であり、アヌラーダプラ王国の重要な拠点となりました。タミル人勢力に追われたアヌラーダプラ国王は岩窟の僧院で再起を図り、父を殺害して即位したカシャパ王は弟の報復を恐れてアヌラーダプラからシーギリヤに遷都した歴史があります。

タミル人勢力の侵攻

紀元前2世紀からタミル人勢力のチョーラ朝とパーンディヤ朝が侵攻するようになり、ドゥッタガマーニ王はタミル人勢力の侵略を阻止しました。紀元前1世紀にタミル人勢力の侵略でアヌラーダプラを追われたワッタガーマニー・アバヤ王は、僧院があるダンブッラの岩山に隠れて王権奪回を図り、タミル人勢力からアヌラーダプラを奪還して再び王座に就きました。

ダンブッラ石窟寺院

ワッタガーマニー・アバヤ王は王権奪還の感謝の意を込めて僧院を改修し、タンブッラ石窟寺院を創建しました。やがてシンハラ王朝はタミル人勢力の侵攻を受けてセイロン島北部を失いますが、寺院はのちの王朝も拡充を続け、ビルマのパガン王朝からの留学生を受け入れるなど興隆しました。タンブッラ石窟寺院は第1窟から第5窟まであり、岩窟にはそれぞれの時代を反映した仏像が安置されています。

スリランカ・ダンブッラのダンブッラ石窟寺院

ダンブッラ石窟寺院

ワッタガーマニー・アバヤ王が戦勝を記念して創建した寺院で、歴代シンハラ王朝が改修を繰り返して5つの石窟からなる国内最大の石窟寺院となりました。

スリランカ・ダンブッラのダンブッラ石窟寺院デーワ・ラージャ・ヴィハーラ(第1窟)

デーワ・ラージャ・ヴィハーラ(第1窟)

神々の王の寺という意味がある最も古い石窟で、狭い内部に14メートルの自然の岩で作られた巨大な涅槃仏が祀られています。

スリランカ・ダンブッラのダンブッラ石窟寺院マハー・ラジャ・ヴィハーラ(第2窟)

マハー・ラジャ・ヴィハーラ(第2窟)

仏像が56体が安置され、天井や壁には紀元前から描かれた壁画で埋め尽くされます。洞窟の天井から滴る水は病気を治す効力があると信じられています。

スリランカ・ダンブッラのダンブッラ石窟寺院マハー・アルト・ヴィハーラ(第3窟)

マハー・アルト・ヴィハーラ(第3窟)

18世紀後半のキャンディ王キルティ・スリ・ラージャーハーが造営した石窟で、寺院になる前は倉庫として使用されていました。

スリランカ・ダンブッラのダンブッラ石窟寺院パッツィーマ・ヴィハーラ(第4窟)

パッツィーマ・ヴィハーラ(第4窟)

キャンディ王朝末期に造られた岩窟で3人の王の寺という意味があります。仏像は10体ほどで、キャンディ王国末期に製造された比較的新しい坐像が多いです。

スリランカ・ダンブッラのダンブッラ石窟寺院デワナ・アルト・ヴィハーラ(第5窟)

デワナ・アルト・ヴィハーラ(第5窟)

20世紀に作られた比較的新しい石窟で、かつての倉庫を改装した狭い空間です。最奥には涅槃仏の他にヒンドゥー教の神も祀られています。

シーギリヤ遷都

アヌラーダプラを治めていたダートゥセーナ王は、平民出身の側室の子である長男カシャパではなく、王族の血筋があるモッガラーナに王位継承を考えていました。カシャパは自分が正当な後継者として父ダートゥセーナ王を殺害して王位を受け継ぎ、弟モッガラーナを南インドに追放しました。カシャパはモッガラーナの復讐を恐れてシーギリヤに遷都して、鉄壁の守りのシーギリヤ・ロックに宮殿を建てました。

シーギリヤ遺跡

シーギリヤに遷都したカシャパ王でしたが、495年に弟モッガラーナとの戦いに破れて短刀で自害しました。モッガラーナは王都を再びアヌラーダプラに戻し、シーギリヤを僧院としました。シーギリヤの僧院は13〜14世紀頃まで存続しますが、次第に衰退していき、1875年にイギリス人が発見するまでジャングルの奥深くに眠り続けました。

スリランカ・マータレーのシーギリヤ・ロック

シーギリヤ・ロック

高さ180メートルある巨大な岩で、古くから仏教僧の修行の場所として人を寄せ付けない地でした。弟の復讐を恐れたカシャパ王は、この崖上に宮殿を築きました。

スリランカ・マータレーのシーギリヤ遺跡・水の広場

水の広場

カシャパ王の統治はわずか11年でしたが、シーギリヤ・ロックの麓には王の沐浴場とドライ・シーズン・パレスとよばれる水の広場が整備されました。

スリランカ・マータレーのシーギリヤ遺跡・ライオンテラス

ライオンテラス

宮殿の入口には煉瓦と漆喰でライオンの前足の形が残されています。建造当時はライオンの顔もあり、宮殿に登る人はライオンの喉に飲み込まれるように見えました。

スリランカ・マータレーのシーギリヤ宮殿跡

シーギリヤ宮殿跡

カシャパ王はシーギリヤ・ロックの頂上につくられた宮殿で生活しました。1.6ヘクタールある敷地には王宮や兵舎などが建造されました。

スリランカ・マータレーのシーギリヤ宮殿跡・王座

シーギリヤ宮殿・王座

山上の宮殿には、大きな石を加工して王座が造られました。カシャパ王は父殺しの王と揶揄されて従う人たちは限られていたと言われます。

スリランカ・マータレーのシーギリヤ宮殿跡・王のプール

シーギリヤ宮殿・王のプール

シーギリヤ・ロックの頂上には、雨水を貯えた人工池が設けられました。この人工池は王のみが沐浴できました。

スリランカ・マータレーのシーギリヤ・レディ

シーギリヤ・レディ

シーギリヤ宮殿で暮らしていた女性がモデルと言われる美しい壁画(撮影はNG)です。シーギリヤ・レディは500体ほど描かれましたが、今は18体しか残されていません。

スリランカ・マータレーのシーギリヤ遺跡・ミラーウォール

ミラーウォール

壁が丁寧に磨き上げられて鏡のような壁が続く回廊で、岩壁に描かれたシーギリヤ・レディを映し出すように設計されていました。

マータレー蜂起

1505年にポルトガルがセイロン島に侵攻して沿岸部を占領しました。やがて占領者がオランダからイギリスへと移り変わり、イギリスは最後のシンハラ王朝であるキャンディ王国を滅ぼしてセイロン島全土を支配しました。1815年のウィーン会議の議定書でイギリスにセイロン島の領有が認められると、イギリスの植民地支配に反対した人びとは各地では蜂起し、1848年のマータレー蜂起ではイギリスのマクドウェル要塞が包囲されました。