歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ポロンナルワ

スリランカ・ポロンナルワのガル・ヴィハーラ

ポロンナルワはスリランカ北中部にある古都で、最盛期には仏教都市としてタイやビルマなどから僧侶が訪れるほど栄えました。13世紀に南インドからの侵略や内紛で放棄され、一帯は密林に埋もれて繁栄した都は忘れ去られました。

概要

面積
3,293km2
標高
不明
人口
403,859人(2012年)
地図

歴史

インドのチョーラ王朝の侵略によりアヌラーダプラを追われたシンハラ王朝は、1017年から1255年にかけてポロンナルワを首都としました。ポロンナルワ王国は数多くの寺院や仏塔をつくり、ミャンマーやカンボジアなどと仏教交流を進めましたが、南インドのタミル人勢力の侵攻を受けて放棄されました。

ポロンナルワ遷都

南インドのチョーラ朝ラージャラージャ1世は、パーンディヤ朝を制圧してスリランカに侵攻しました。1017年にアヌラーダプラは放棄されてポロンナルワに遷都しますが、国王マヒンダ5世がチョーラ朝に捕らえられ、ポロンナルワはジャナナタプラムと名付けられてチョーラ朝の支配を受けました。

スリランカ・ポロンナルワのサトゥマハル・プラサーダ

サトゥマハル・プラサーダ

いつ建造されたか分からないレンガ造りの7階建の塔です。タイやカンボジアの影響を受けた塔で、四角い土台と階段状の形状をしています。

スリランカ・ポロンナルワのサトゥマハル・プラサーダ

サトゥマハル・プラサーダ

11~12世紀にタイの建築士により造営されたと言われる塔ですが、歴史書などに記録が無いため謎の多い建物です。

ポロンナルワ王国の建国

1073年にヴィジャヤバーフ王がチョーラ朝を破りアヌラーダプラやポロンナルワを奪還しました。ヴィジャヤバーフ王はポロンナルワ王国を建国してシンハラ王朝を再建しました。ポロンナルワ国王は熱心な仏教徒で数多くの寺院や仏塔を造営し、ミャンマー・パガン朝やカンボジア・クメール朝などと仏教交流を盛んに行いました。

スリランカ・ポロンナルワのアタダーゲ

アタダーゲ

11世紀末にヴィジャヤバーフ1世により建造されました。現在残されている石柱の上には木造建築があり、仏歯は2階部分に祀られていたと言われます。

スリランカ・ポロンナルワのトゥーパ・ラーマ

トゥーパ・ラーマ

12世紀に建てられた保存状態の良いレンガ造りの仏堂で、涼しい室内で王が瞑想したと言われます。室内には仏像や仏塔が並び、小さな窓から光が注ぎます。

ポロンナルワ王国の繁栄

ポロンナルワ王国は、パラークラマ・バーフ1世が発展させて最盛期を迎えました。パラークラマ・バーフ1世は灌漑設備の充実に努め、パラークラマ・サムドラと呼ばれる巨大な灌漑用貯水池を建設し、乾季でも農耕を可能にしました。堕落したスリランカ仏教を再建するため、宗教改革にも着手しました。

スリランカ・ポロンナルワのパラークラマ・バーフ1世の宮殿跡

パラークラマ・バーフ1世の宮殿跡

ポロンナルワ王国を発展させたパラークラマ・バーフ1世が住まいとした宮殿で、7階建て35メートルある建物でしたが、現在は3階部分までが残ります。

スリランカ・ポロンナルワの閣議場跡

閣議場跡

ポロンナルワ王国の政治が行われた場所で、国王の次に皇太子が座り、将軍や閣僚などのほか貴族や豪商も同席しました。数多くの石柱には各大臣の名前が刻まれています。

スリランカ・ポロンナルワのパラークラマ・サムドラ

パラークラマ・サムドラ

パラークラマ・バーフ1世が造営した巨大な灌漑用貯水池で、パラークラマ海とも呼ばれます。この人工池が造営されたことで乾季でも農耕が可能となりました。

スリランカ・ポロンナルワのキリ・ヴィハーラ

キリ・ヴィハーラ

パラークラマ・バーフ1世の妻のひとりサバドラ女王が建立した純白の仏塔で、シンハラ語でミルクを意味するキリを冠しています。

宗教改革とガル・ヴィハーラ

スリランカの仏教は上座部仏教のアヌラーダプラ・マハーヴィハーラ派、大乗仏教のアバヤギリ・ヴィハーラ派、3世紀に創設されたジェータヴァナ・ヴィハーラ派の3派がありましたが、これらの宗派の修行僧は次第に堕落していきました。パラークラマ・バーフ1世は、これら3派を統一する会合を開き、没落した僧を還俗させて仏教僧の浄化に努めました。さらに各派の長老を集めて僧侶の律規定(カティカーヴァタ) を定め、ガル・ヴィハーラの壁面に律規定を刻みました。

スリランカ・ポロンナルワのガル・ヴィハーラ

ガル・ヴィハーラ

一枚岩に4体の石像が彫刻された仏教寺院で、岩の僧院とも呼ばれます。花崗岩の一枚岩を彫刻して仏陀坐像、立像、涅槃像が刻まれ、洞窟の中に小さめの仏陀坐像が安置されています。

スリランカ・ポロンナルワのガル・ヴィハーラ(仏陀坐像)

ガル・ヴィハーラ(仏陀坐像)

ガル・ヴィハーラはウッタララーマ(北の僧院)とも呼ばれていました。高さ5メートルある仏陀坐像は、蓮華座に座り指に定印を結んでいます。

スリランカ・ポロンナルワのガル・ヴィハーラ(立像)

ガル・ヴィハーラ(立像)

高さ7メートルの立像で、悟りを開いた釈迦立像または仏陀の弟子アーナンダと言われます。立像と洞窟坐像の間の壁面にカティカーヴァタ(律規定) が刻まれました。

スリランカ・ポロンナルワのガル・ヴィハーラ(洞窟の仏陀坐像)

ガル・ヴィハーラ(洞窟の仏陀坐像)

坐像の高さは1.5メートルで形状は大型坐像と似ています。洞窟内はかつて壁画が描かれており、坐像を荘厳していたようです。

スリランカ・ポロンナルワのガル・ヴィハーラ(涅槃像)

ガル・ヴィハーラ(涅槃像)

長さ14メートルある涅槃像は、両足の長さが不揃いで耳たぶが落ちていることから、休んでいるのではなく涅槃に達した状態を示しています。

ニッサンカ・マーラ王

パラークラマ・バーフ1世の後継者ヴィジャヤバーフ2世は、カリンガ国からニッサンカ・マーラを招きました。ニッサンカ・マーラはヴィジャヤバーフ2世を暗殺したマヒンダ6世を倒して自ら王位に就いたため、シンハラ王朝の血筋は途絶えました。ニッサンカ・マーラ王は仏教徒だけが国を統治する権利があると宣言し、自分の地位を確保しつつ王権の主張を正当化し、さまざまな建設や改修に多額の費用を費やして国家財政を壊滅的な状態にしました。

スリランカ・ポロンナルワのニッサンカ・マーラ宮殿

ニッサンカ・マーラ宮殿

ニッサンカ・マーラ王が住まいとしていたところで、シンハラ民族を象徴するシンハ(ライオン)の像が残されています。

スリランカ・ポロンナルワのニッサンカ・マーラの沐浴場(クマラ・ポクナ)

沐浴場(クマラ・ポクナ)

ニッサンカ・マーラ王は仏教を篤く信奉し、蓮の花の形をした沐浴場を整備しました。ニッサンカ・マーラ王は古い寺院の修復事業なども行いました。

スリランカ・ポロンナルワのラター・マンダパヤ

ラター・マンダパヤ

ニッサンカ・マーラ王が仏教の経典を聴くために建造しました。ニッサンカ・マーラ王はカンボジア・クメール王朝に仏教使節を送り上座部に改宗させています。

スリランカ・ポロンナルワのガルポタ

ガルポタ

ニッサンカ・マーラ王の栄光が記されている石の本で、長さ8メートル、幅1.5メートル、25トンもの巨大な石の表面にびっしりとスワヒリ文字が刻まれています。

スリランカ・ポロンナルワのハタダーゲ

ハタダーゲ

12世紀に建立された仏歯を祀る寺院で、隣のアタターゲよりも大きく重厚な建物です。かつては2階建で、木造の2階部分に仏歯などが収められていました。

スリランカ・ポロンナルワのワタダーゲ

ワタダーゲ

ポロンナルワ時代に最終的に仏歯が納められた寺院と言われます。東西南北の入口に仏像が安置され、木造の円錐状の屋根が置かれていたと考えられています。

スリランカ・ポロンナルワのランコトゥ・ヴィッハーラ

ランコトゥ・ヴィッハーラ

12世紀にニッサンカ・マーラ王が完成させた高さ33メートル、直径は170メートルある仏塔で、ポロンナルワで最大の規模を誇ります。

ポロンナルワ王国の衰退と滅亡

ポロンナルワ王国は王位継承争いで次第に衰退していき、1255年に南インドのパーンディヤ朝の侵攻で首都をダンバデニヤに遷しました。タンバデニア王国パラークラマバーフ3世は、パーンディヤ朝に奪われていた仏歯を奪い返して仏教を再興しますが、放棄されたポロンナルワは19世紀に発見されるまでジャングルに埋没しました。

スリランカ・ポロンナルワのランカティラカ寺院

ランカティラカ寺院

シンハラ建築のゲディゲと呼ばれる様式で、壁面に浮き彫りが施されています。天井は落ちて外壁上部が崩壊し、奥にある14メートルの立像も頭部はありません。

スリランカ・ポロンナルワのランカティラカ寺院(壁画)

ランカティラカ寺院(壁画)

壁に描かれたフレスコ画は判別できませんが、朱色などの色が見られ、かつて寺院が鮮やかな色で装飾されていたことを物語ります。