キャンディ

キャンディはスリランカ中部州の州都です。シンハラ人最後の王朝・キャンディ王国の都であり、現在でもスリランカ中部の中心的な都市として機能しています。キャンディとはシンハラ語で山を意味するカンダが転じた呼称で、別称としてマハー・ヌワラと呼ばれます。
概要
- 面積
- 28.53km2
- 標高
- 500m
- 人口
- 12.54万 (2011年)
- 地図
歴史
16世紀に最後のシンハラ王朝となるキャンディ王国が建国されました。キャンディ王国は植民地政策を進めるポルトガルの侵攻を何度も食い止めましたが、イギリスの植民地時代に国際的にイギリス領とされて滅亡しました。
キャンディ王国の成立
1412年に中国明朝の朝貢国としてコーッテ国が誕生してセイロン島を統一しますが、国王パラークラマ・バーフ6世の死後に地方勢力の力が強まり、1469年にウィクラマバーフがキャンディ王国を成立させました。1505年にシナモンなどの香辛料の独占貿易を求めたポルトガルがセイロン島に侵攻し、やがてコーッテ国を含む沿岸国がポルトガルに併合されていきました。1590年にキャンディ王国ヴィマラダルマスリヤ王は、コーッテ国から仏歯を受け取り、1597年にコーッテ国が滅亡したことでシンハラ王朝の正統な王権がキャンディ王国に受け継がれました。
ダラダー・マーリガーワ寺院(仏歯寺)
1590年にコーッテ国から王権の象徴である仏歯がキャンディに持ち込まれると、半世紀してから仏歯を保管する寺院が創建しました。キャンディ王国は幾度もポルトガルから侵攻されますが、キャンディ王国は仏歯を隠して土地を守りました。最後のキャンディ王シュリ・ヴィクラマ・ラジャシンハ王は仏歯寺に八角形のオクタゴンを創建し、ヤシの葉を原料とするパピラに書かれた経典を保管しました。

ダラダー・マーリガーワ寺院(仏歯寺)
17世紀に仏歯を祀る寺院として創建しました。右手の八角形のオクタゴンには、紀元前88年からヤシの葉を原料としたパピラに書かれたパーリ語経典が納められています。

舎利容器
毎日3回行われるプジャーと呼ばれる祈りの儀式で参拝することができます。僧が仏堂で身を清め、太鼓の音と共に仏歯を納める黄金の仏塔が運ばれてきます。

プジャー
午前5時半、9時、午後6時半の毎日3回行われる祈りの儀式で、舎利容器が運ばれると大勢の仏教徒が花を添えて祈りを捧げます。

エサラ・ペラヘラ
7~8月に10日間かけて行われます。寺院で最も重要な儀式で、煌びやかな装飾を施したゾウの背中に仏歯を納めた舎利容器を乗せて町を練り歩きます。
オランダの植民地時代
セイロン島沿岸を支配したポルトガルは、1630年にキャンディ王国に侵攻しました。キャンディ王国セネラト王はキャンディの地形を巧みに利用して撃退しました。1634年にセネラト王が亡くなるとポルトガルは再びキャンディ王国へ侵攻しましたが、セネラト王の跡を継いだラージャ・シンハ2世が再びポルトガルを撃退しました。ポルトガルとアジアの覇権を争うオランダ(ネーデルラント連邦共和国)はキャンディ王国を支援し、1658年にポルトガルに代わり入植を果たしました。
イギリス植民地から独立
ポルトガルを駆逐して植民地政策を進めるオランダでしたが、フランス革命の影響でオランダ本国が崩壊しました。1796年にイギリスがセイロン島を占領すると、1802年のアミアン条約でセイロン島全体がイギリス領として認められました。以来150年以上にわたり植民地支配を受けましたが、1948年にインド独立と連動して自治国として独立を果たし、1972年にイギリスから完全独立して国号もセイロンからスリランカに改称しました。

ペラデニア植物園
14世紀にポロンナルワ王国パラークラマ・バーフ1世が王妃のために造営した庭園は、1821年にイギリスが植物園として茶やシナモンなどの栽培を行いました。

茶畑
イギリスは主に本国向けの茶(紅茶)のプランテーション栽培を行いました。ペラデニア植物園はセイロン茶として世界的に有名なスリランカ紅茶発祥の地となりました。