歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

相次ぐ大戦とハンガリーの民主化

ハンガリー・ブダペスト市街

オーストリア=ハンガリー帝国が統治ていた時代、オーストリア皇太子が訪問先のサラエボで暗殺されて第一次世界大戦に発展しました。オーストリア=ハンガリー帝国は敗退して、ハンガリーとして独立しました。第二次世界大戦ではドイツに追従して参戦しますが、戦後にソ連の影響を受けることになり、ハンガリー動乱を経て民主化されました。

サラエボ事件

1877年に四月蜂起と呼ばれる内乱でオスマン帝国が衰退すると、ロシア帝国はオスマン帝国に侵攻してセルビア、ルーマニア、ブルガリア、モンテネグロを独立に導きました。オーストリア=ハンガリー帝国はボスニア=ヘルツェゴビナを併合しますが、バルカン半島は不安定な情勢となりました。1914年にボスニア出身のセルビア青年は、サラエボを訪れていたオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公とその妻ソフィーを殺害するサラエボ事件を起こしました。

第一次世界大戦の勃発

1879年にドイツ帝国と同盟を結んでいたオーストリア=ハンガリー帝国は、1914年に皇太子暗殺の報復としてセルビアに宣戦布告しました。セルビアを支援するためロシアが参戦すると、ドイツがオーストリア側として参戦します。ドイツはロシアと三国協商を締結していたフランスに進軍したことで連鎖反応を起こし、ヨーロッパ各国とその植民地が加わる第一次世界大戦に発展しました。

フェルディナント大公

フェルディナント大公

オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者でしたが、サラエボを訪問中にセルビア人民族主義者ガヴリロ・プリンツィプに銃殺されました。

サラエボ市街

サラエボ市街

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都で、フェルディナンド大公が暗殺された地です。このサラエボ事件は連鎖的に世界を巻き込む第一次世界大戦となりました。

ハンガリーの独立

1918年にドイツとオーストリアが敗北して第一次世界大戦が終結すると、オーストリア=ハンガリー帝国は解体されてブルジョア政権であるハンガリー共和国が成立しました。1919年にソ連の影響を受けたクン=ベラがハンガリー革命を起こしてハンガリー評議会共和国を樹立しますが、フランスの支援を受けたルーマニアの干渉や反革命軍の蜂起で崩壊し、反革命派のオーストリア=ハンガリー帝国の海軍提督ホルティ・ミクローシュが権力を掌握しました。

ハンガリー王国成立

1920年にホルティは摂政に任命され、国王不在のままハンガリー王国の成立を宣言して第一次世界大戦の講和条約トリアノン条約に調印しました。この条約によりハンガリーは国土の72%を失い、ハンガリーの文化や経済はブダペストが占めるようになりました。

ホルティ・ミクローシュ

ホルティ・ミクローシュ

第一次世界大戦後のハンガリー王国で摂政を務めた軍人で、第一次世界大戦後にハンガリーが革命と混乱に陥ると、反革命軍の総帥として共産主義政権を打倒しました。

ハンガリー・ブダペスト市街

ブダペスト市街

ドナウ川を挟んで西側のブダ地区と東側のペスト地区が統合されてできた美しい都市です。ハンガリーの首都としてハンガリーの歴史の中心となりました。

ファシズム的独裁体制

ドイツでナチスが台頭してくると、ハンガリーでもナチスに呼応する政治家が現れるようになり、1932年に首相に就任したゲンベシュ・ジュラはファシズム的独裁体制を樹立するためにドイツに接近しました。ハンガリーはナチスの権力を背景として、1938年にスロバキア南端部を併合し、1940年にはルーマニアからトランシルヴァニア北部を取り返しました。

第二次世界大戦の勃発

第二次世界大戦が始まるとハンガリーはドイツに追従して日独伊三国同盟に加わり参戦します。やがてドイツが劣勢になるとハンガリーは中立的な立場を取るようになり、1944年にパンツァーファウスト作戦によりブタペストはドイツ軍により占領されました。1945年にソ連軍とルーマニア軍が侵攻してハンガリー軍は無条件降伏しました。

ドイツ軍が占領するブダペストにきます。

ゲンベシュ・ジュラ

ゲンベシュ・ジュラ

ハンガリー王国で首相を務めた軍人で、ファシスト指導者と友好的な関係を築きながらもハンガリーの伝統的な君主制を維持しようとしました。

ハンガリー・ブダペスト市街

ブダペスト市街

ソ連軍がブダペストを包囲して激しい市街戦が繰り広げられました。この戦いはブダペストのスターリングラードとも呼ばれるほど壮絶なものでした。

ハンガリー・ブダペストのセーチェーニ鎖橋

セーチェーニ鎖橋

ドイツ軍はセーチェーニ鎖橋を含むドナウ川の全ての橋を爆破して進軍を阻もうとしますが、ブダペストは戦場と化して大きな被害を受けました。

ハンガリー・ブダペストのセーチェーニ鎖橋

セーチェーニ鎖橋

ドイツ軍により完全に破壊されましたが、ブダとペストを結ぶ重要な橋であるため、1949年に鋼材の半分以上を再利用して再建されました。

ハンガリー動乱

1945年にソ連の侵攻によりナチス勢力から解放されたハンガリーは、1947年にソ連の息がかかるハンガリー共産党ラーコシ・マーチャーシュが一党独裁体制を確立しました。1953年のスターリンの死去に伴いラーコシが失脚すると、1956年にハンガリー国内で反政府運動が活発化して民衆は英雄広場のスターリン像を倒して武装蜂起しました。これを鎮圧するため、ソ連軍が侵攻したことでハンガリー動乱となりました。

ハンガリーの民主化

民衆はソ連軍に対して激しく抵抗を続けたため、民衆に人気があるナジ・イムレを首相としてソ連軍は撤退しました。国内は民主化とソ連軍完全撤退を求める民衆が暴徒化し、ソ連軍はこれを鎮圧するため再び侵攻しました。ブダペストに侵攻したソ連軍は、民衆に対して砲撃を加えながら国会議事堂に進撃、ブダペスト市街の至る所が陥落しました。この軍事的介入に対してアメリカを始めとする西側諸国は一切介入しない方針を固めたため、ハンガリーはソ連に敗北しました。ハンガリーが民主化を勝ち取るのは経済破綻を発端とした1989年まで待つことになります。

ハンガリー・ブダペストの英雄広場

英雄広場

1896年のハンガリー建国1000年を記念して建設が始まり、1929年に完成しました。スターリン像がありましたが、ハンガリー動乱で倒されました。

ハンガリー・ブダペストの国会議事堂

国会議事堂

1904年に完成したネオ・ゴシック様式の建造物で、世界3番目の大きさを誇る国会議事堂です。聖イシュトヴァーンの王冠も展示されています。