モン州
モン州はミャンマーの行政区画の一つで、ミャンマー南東部に位置し西はアンダマン海に面しています。山間部にはミャンマー仏教の聖地であるチャイティーヨ・パゴダがあり多くの参拝者が訪れます。小説や映画で有名なビルマの竪琴はモン州のムドン収容所が舞台です。
概要
- 面積
- 12,300km2
- 標高
- 不明
- 人口
- 205.4万 (2014年)
- 地図
歴史
モン州は、先住民モン族は仏教を保護して、のちに成立した王朝も仏教を保護したことで仏教文化が花開きました。仏陀の聖髪が納められているチャイティーヨー・パゴダはゴールデンロックとも呼ばれ、多くの仏教徒が訪れる聖地となりました。イギリス領として植民地化されるとゴムなどを栽培するプランテーションが造営されました。
モン族と仏教
モン州は東インドから移住して来たモン族が住むようになりました。6世紀にモン族による初めての王朝ドヴァーラヴァティー王国が成立すると、上座部仏教が保護され仏教寺院が建造されるようになりました。ドヴァーラヴァティー王国が1024年にクメール王朝に滅ぼされると、モン州のあたりは小さな集落が点在するだけの空白地帯となりましたが、やがてチベットや中国雲南省に住んでいたビルマ族が南下して先住民のモン族やピュー族を追い出して国家を形成するようになりました。
モン州
モン族は海洋交易を盛んに行い、紀元前3世紀ころにインド・マウリヤ朝アショーカ王が派遣した僧侶により仏教が伝来しました。
アショーカ王
仏教を庇護して世界に伝えたインド・マウリヤ朝の王です。
ビルマ族のパガン王朝
1044年にアノーヤター王がパガンに都を置き、ビルマ族の最初の国家であるパガン王朝が成立しました。パガン朝は、スリランカ(セイロン)の高度な上座部仏教の影響を受けていたモン人から上座部仏教の文化を取り入れ、首都パガンに多くのパゴダ(仏塔)を建造しました。第3代チャンシッター王の時代では、多くの仏塔や寺院が建設され、最盛期を迎えて建寺王朝と言われました。
パガン王朝の衰退と滅亡
パガン王朝は13世紀後半に衰退していき、モンゴル帝国の国号を元としたクビライが侵攻して1287年に首都パガンが占領されました。パガン王朝はモンゴル帝国に従属する形で存続することになりましたが、急速に衰えて内乱により間もなく滅亡しました。
アノーヤター王
ビルマ族最初の王朝パガン王朝が成立しました。
クビライ・ハン
ユーラシア大陸を制圧したモンゴル帝国(元)の皇帝です。
チャイティーヨー・パゴダ
チャイティーヨーパゴダ(ゴールデンロック)は標高1100メートルのチャイティーヨー山頂にあります。高さ7メートル、周囲は26メートルの大岩が崖にせり出しているのに落ちない不思議な岩です。伝説では岩の上にあるパゴダに仏陀の聖髪が納められており、神秘的な力で岩が落ちることなくバランスを保ち続けていると言われます。
チャイティーヨー・パゴダ
仏陀の聖髪が祀られて神秘的な力で岩がバランスを保ちます。チャイティーヨーパゴダの聖域はミャンマーの仏教聖地として裸足で参拝することになります。
チャイティーヨー・パゴダ
ゴールデンロックがある神聖な領域は女人禁制ではありますが、金箔を購入すれば参拝者でも帽子などを脱いで身なりを整えれば近づいて金箔を貼ることができます。
ペグー王国
スコータイ王国の象使いとして仕えて、のちに近衛隊長に抜擢されたワレルは、スコータイの王女と故郷の下ビルマに駆け落ちし、1281年にマルタバン太守スレルマンを殺害して支配者となりました。ワレルはパガン朝の追撃を撃退すると下ビルマ全域を支配下に置き、スコータイ王国の援助を受けてマルタバンを首都とするペグー王朝(ハンターワディ―王朝)を成立させました。上ビルマではシャン族がモンゴル軍を追い出してピンヤ王朝とサガイン王朝を建国しており、ビルマは分裂状態になりました。
タウングー王朝
1364年にピンヤ王朝とサガイン王朝がマオ・シャン族の侵攻により滅亡すると、サガイン王朝の王族がアヴァ王朝を建国しました。1531年に上ビルマでビルマ人国家タウングー王朝が成立すると、タウングー朝タビンシュウェティー王は1539年にペグー王朝の首都ペグーを占領し、1546年にペグーでビルマの王として即位しました。2代バインナウン王は現在のタイやラオスにまで版図を広げて多くの仏教寺院を建設しましたが、外征で多くの農民が駆り出されたことで農村が荒廃して領民の反乱を招きました。
バインナウン王
タウングー朝2代目の王で、タイやラオスまで版図を広げて多くの仏教寺院を建造しましたが、領民の反乱が激しくなり拡大した土地もすぐに失われていきました。
コンバウン朝
タウングー王朝の支配に対してモン人は反乱を起こして1752年にタウングー王朝を滅ぼしました。モン人の進撃に対して、アラウンパヤーはビルマ人を束ねてコンバウン王国を創建しました。アラウンパヤー王はモン人に反撃を行い、1757年にペグーを落としてビルマ統一に成功しました。
勢力を拡大したコンバウン朝
コンバウン朝は3代シンビューシン王はラーンサー王国(タイ・チェンマイ)、ラーンサーン王国(ラオス・ヴィエンチャン)に遠征したほか、1767年にはアユタヤを滅ぼしました。コンバウン朝の勢力拡大を警戒した清の乾隆帝は1769年にビルマに侵攻しますが、コンバウン朝は清を撃退しています。6代ボードーパヤー王はビルマ西方に侵攻してビルマ領を最大にしましたが、ビルマ西方への侵攻がインド制圧を目指すイギリスを刺激してイギリス=ビルマ戦争へ発展しました。
アラウンパヤー王
ビルマ人を束ねてビルマ統一に成功してコンバウン王国を創建しました。このときに聖地ダゴンはヤンゴン(ラングーン)と改称されています。
イギリス=ビルマ戦争(英緬戦争)
1824~86年にわたり3度起きたイギリス=ビルマ戦争(英緬戦争)で、ビルマはイギリスに敗れてインド帝国に編入されました。2次イギリス=ビルマ戦争では、現在のモン州を含む下ビルマが大英帝国に征服され、3次イギリス=ビルマ戦争ではコンバウン王朝が滅亡して1886年にインド帝国の一州としてイギリス植民地に併合されイギリス領ビルマとなりました。
イギリス=ビルマ戦争
ビルマ軍はイギリスとの戦争で敗れ、3回目の戦争でコンバウン朝は滅亡して、ビルマはインド帝国の一州として植民地として支配されました。
田園風景
イギリスの植民地となると、モン州の山間部では果樹とゴムのプランテーション経営が行われて現在も継続する産業になりました。
英国の植民地から現在
イギリスはビルマ支配の中心を南部の海岸地方に置いて輸出用の米の生産地帯としました。第二次世界大戦が終戦すると、各地の収容所に日本兵が捕虜として収監され、モン州のムドン収容所はのちにビルマの竪琴の舞台となりました。やがてイギリスがミャンマー周辺地域の植民地支配を解きますが、モン族独自の王国は復活せずミャンマー軍事政権が誕生して、これに対して民主化運動が活発化することになります。