歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ヤンゴン

ミャンマー・ヤンゴンのシュエダゴォン・パヤー

かつて首都として機能していたヤンゴンは、戦いの終わりを意味するミャンマー最大都市です。ミャンマー仏教文化の中心地として黄金に輝くパゴダが混在しているほか、ラングーンと呼ばれたイギリス植民地時代に建てられたコロニアル様式の美しい建築物が残されています。

概要

面積
598.8km2
標高
不明
人口
5,160,512人(2015年)
地図

歴史

ヤンゴンは、モン族がシュエダゴォン・パヤーから聖地ダゴンとして都市を建設したことに始まります。18世紀にコンバウン朝が王都に定めてヤンゴンと呼び、イギリス植民地時代にラングーンと改称されました。20世紀にイギリスから独立してヤンゴンの名称に戻りますが、2006年に首都がネピドーに移されました。

仏教寺院の創建

古くから信仰の篤いヤンゴンは、聖霊を祀るスーレー・パヤーが創建していました。インドとの交易で仏教が伝来すると、紀元前585年に仏陀から8本の聖髪をもらい受けたタポゥタとパッリカの兄弟商人が聖髪を奉納してシュエダゴォン・パヤーが創建されました。

ミャンマー・ヤンゴンのスーレー・パヤー

スーレー・パヤー

スーレーとは古い聖霊スーレー・ナットに由来するもので、シュエダゴォン・パヤーよりも古いとされます。高さ48メートルの八角形の黄金仏塔が特徴です。

ミャンマー・ヤンゴンのシュエダゴォン・パヤー

シュエダゴォン・パヤー

シュエは黄金を意味し、10トンもの金のプレートが8000枚以上使用されます。仏塔の上部には5000個のダイヤモンドと1300個以上の宝石が埋め込まれています。

ヤンゴンの前身ダゴンの誕生

6世紀にドヴァーラヴァティー王国を建国したモン族は、シュエダゴォン・パヤーからダゴンと名付けました。1024年にドヴァーラヴァティー王国がクメール王朝に滅ぼされると、やがてチベットや中国雲南省に住んでいたビルマ族が南下し、先住民のモン族やピュー族を追い出して国家を形成するようになりました。

ミャンマー・ヤンゴン市街

ヤンゴン市街

モン族は海洋貿易を得意としていたため紀元前3世紀ころには仏教が伝来しており、ダゴンはシュエダゴン・パゴダを中心とした小さな漁村として整備されました。

ミャンマー・ヤンゴン郊外

ヤンゴン郊外

ヤンゴンは海に面する平野であることから、古くから陸上と海上交易が盛んな地であるとともに、漁業や農業などにも適していました。

ビルマ族によるパガン王朝

1044年にアノーヤター王がパガンに都を置き、ビルマ族の最初の国家であるパガン王朝が成立しました。第3代チャンシッター王の時代に最盛期を迎え、多くの仏塔や寺院の建設から建寺王朝と呼ばれました。パガン王朝は13世紀後半に衰退していき、1287年にモンゴル帝国のクビライが侵攻して首都パガンが占領されました。パガン王朝はモンゴル帝国に従属しますが、急速に衰えて間もなく内乱で滅亡しました。

アノーヤター王

アノーヤター王

ビルマ族最初の王朝パガン王朝を成立させ、スリランカ(セイロン)の高度な上座部仏教を知るモン人から上座部仏教の文化を取り入れて多くのパゴダ(仏塔)を建造しました。

クビライ・ハン

クビライ・ハン

ユーラシア大陸を制圧したモンゴル帝国元朝の皇帝で、パガン王朝に臣従を申し入れて拒否されたため、パガン王朝に侵攻して滅亡へと追い込みました。

ペグー王国の建国

スコータイ王国に象使いとして仕えて近衛隊長に抜擢されたワレルは、スコータイの王女と故郷の下ビルマに駆け落ちし、1281年にマルタバン太守スレルマンを殺害して支配者となりました。ワレルはパガン朝の追撃を撃退して下ビルマ全域を支配下に置き、スコータイ王国の援助を受けつつマルタバンを首都とするペグー王朝(ハンターワディ―王朝)を成立させました。上ビルマではシャン族がモンゴル帝国を追い出してピンヤ王朝とサガイン王朝を建国してビルマは分裂状態になりました。

タウングー朝

1364年にピンヤ王朝とサガイン王朝がマオ・シャン族の侵攻で滅亡すると、サガイン王朝の王族がアヴァ王朝を建国しました。1531年に上ビルマでビルマ人国家タウングー王朝が成立して、1539年にタウングー朝タビンシュウェティー王がペグー王朝の首都ペグーを占領しました。1546年にタビンシュウェティー王はビルマ王として即位し、2代バインナウン王が現在のタイやラオスにまで版図を広げて多くの仏教寺院を建設しました。

バインナウン王

バインナウン王

タイやラオスまで版図を広げて多くの仏教寺院を建設しましたが、農民が外征に駆り出されたことで著しく農村が荒廃し、激しい領民の反乱により拡大した土地はすぐに失われました。

コンバウン朝とヤンゴン成立

1752年にモン人の反乱でタウングー王朝が滅びると、アラウンパヤーは敗れたビルマ人を束ねてコンバウン王国を建国しました。1757年にアラウンパヤー王はモン人が籠るペグーを落としてビルマ統一に成功し、聖地ダゴンをヤンゴンに改称しました。

コンバウン朝の繁栄

コンバウン朝3代シンビューシン王は、タイ・チェンマイを拠点とするラーンサー王国、ラオス・ヴィエンチャンを拠点とするラーンサン王国のほか、タイのアユタヤ王国に遠征しました。1767年にアユタヤ王国が滅亡すると、1769年に清朝の乾隆帝がコンバウン朝の勢力拡大を警戒して侵攻するも撃退されました。6代ボードーパヤー王はビルマ西方に侵攻してビルマ領の最大版図を築きましたが、ビルマ西方への侵攻がインド制圧を目指すイギリスを刺激することになります。

イギリス=ビルマ戦争と植民地化

1824年にアッサムを占領したビルマに対してイギリスが宣戦布告し、敗れたビルマはアッサムを放棄してアラカン地方を割譲しました。1852年にラングーン港でのイギリス船の関税支払い問題でイギリスが一方的に2次イギリス=ビルマ戦争を仕掛け、ラングーンを含む下ビルマが大英帝国に統合されました。1885年の3次イギリス=ビルマ戦争ではコンバウン王朝が滅亡してインドに併合され、1886年にイギリス領ビルマとしてヤンゴンはラングーンと改名されました。イギリスは道路や鉄道などのインフラを整備して西洋建築の建設を進めました。

イギリス=ビルマ戦争

イギリス=ビルマ戦争

3度にわたる戦争に敗れてコンバウン王朝は滅亡しました。イギリス植民地のインド帝国に併合されて首都ヤンゴンはラングーンと改名されました。

ミャンマー・ヤンゴンのコロニアル建築

コロニアル建築

イギリス統治下にコロニアル様式の建物が建造されました。ラングーンは東の庭園都市とも呼ばれ、東南アジアにおける先進的かつ豊かな近代都市のひとつとなりました。

ミャンマー・ヤンゴンの旧最高裁判所

旧最高裁判所

1911年に建造された最高裁判所として使用された建物で、建築家ジェームズ・ランサムが設計したコロニアル様式の建物です。

ミャンマー・ヤンゴンのチャウッターヂー・パヤー

チャウッターヂー・パヤー

1906年に一人の仏教徒が建てた涅槃像で、戦争などで崩壊したのち寄付で再建されました。全長70メートル、高さ17メートルの仏像の足裏に108の物語が刻まれます。

反英闘争と第二次世界大戦

1930年にビルマで反英組織タキン党が結成して反英運動が激しくなると、1935年にイギリスはビルマをインドと分離して直轄植民地としてビルマ総督を置きました。イギリスはタキン党の弾圧を進め、アウンサン将軍は日本に亡命しました。日中戦争で蒋介石を追い込みたい日本軍は、援蔣ルートのビルマ=ルートの攪乱のためアウンサン将軍に軍事訓練を施して密かにビルマに戻し、1941年に日本軍はタイのバンコクでビルマ独立義勇軍を創設してアウンサンらを支援しました。

アウンサン将軍の独立運動

フランス領インドシナ南部を抑えていた日本軍は、1942年にビルマに侵攻してラングーンを占領しました。日本はイギリスに捕らえられていた独立運動指導者バーモーを解放して親日政府を樹立し、1943年にビルマ国の建国を認めました。しかしアウンサン将軍は親日政府の樹立に反発して、1945年から抗日武装闘争を開始しました。

ミャンマー・ヤンゴンのハウスオブメモリーズ

ハウスオブメモリーズ

独立義勇軍のアウンサン将軍は、ハウスオブメモリーズを拠点として表面は日本軍に協力しながらも密かに抗日運動を指導しました。

ミャンマー・ヤンゴンのハウスオブメモリーズ

ハウスオブメモリーズ

アウンサン将軍は日本軍がビルマから撤退して再びイギリス領に戻されたことで、今度はイギリスからの独立闘争を指導することになります。

イギリスからの独立

第二次世界大戦が終結してビルマがイギリス領に復帰すると、アウンサン将軍は再びイギリスからの独立闘争を展開しました。1947年にアウンサン将軍はイギリスのアトリー内閣と独立協定に調印しますが暗殺されてしまい、1948年に改めてビルマ連邦としてイギリス統治から完全独立を果たしました。

ミャンマーの建国

1962年の軍部クーデターによりネウィン将軍が権力を握ると、1974年にビルマ連邦社会主義共和国が樹立されました。経済は混乱して貧困化が進行して民主化運動が活発化しました。1989年にミャンマー連邦に変更されてヤンゴンが首都に定められましたが、2006年の軍政下で首都がネピドーに変更されました。

ミャンマー・ヤンゴンのマハバンドゥーラ公園

マハバンドゥーラ公園

独立を記念してイギリス統治時代の旧最高裁判所やヤンゴン市庁舎があるマハバンドゥーラ公園に高さ42メートルの独立記念塔が建てられました。

ミャンマー・ヤンゴン市街

ヤンゴン市街

ミャンマーの首都として最大規模を誇りましたが、軍事政権下で首都がネピドーに変更されました。