フィリピン独立と太平洋戦争
フィリピンは1565年から300年に渡りスペインの植民地支配を受け、1898年にアメリカの植民地となりました。アメリカから独立を約束されましたが、太平洋戦争の勃発により日本占領下に置かれることになりました。東洋の真珠と称えられたマニラは荒廃と化しましたが、現在は経済発展を遂げています。
ホセ・リサールの独立運動
フィリピンは1565年からスペインの植民地とされていました。華僑系メスティーソと日本人メスティーソの間に生まれたホセ・リサールは、19世紀末に武力ではなく平和的にスペインから独立を目指して活動しました。1892年にフィリピンに戻るとフィリピン同盟を組織すべく活動しますが、スペイン政府当局により逮捕されてミンダナオ島に流刑となりました。流刑を終えたリサールでしたが、1896年にボニファシオらによる秘密組織カティブナンの独立闘争が始まるとスペイン官憲に逮捕されマニラに送還されました。リサールは即座に軍法会議にかけられて銃殺刑となりました。
ホセ・リサール
数多くの言語を習得しており、イギリス、フランス、ドイツなどに留学して医学などを研究するとともにスペインによるフィリピン支配を告発する本を執筆しました。
ホセ・リサールの処刑
スペインから危険視され、軍法会議にかけられて銃殺刑となりました。銃殺された場所はリサール公園として整備されています。
アメリカ植民地時代
1895年のキューバ独立闘争を端緒として1898年にスペインはアメリカとの戦争に発展しました。マニラ湾の海戦でアメリカ艦隊がスペインに勝利すると、アギナルドらはアメリカ軍を後盾としてフィリピン独立戦争を行いました。1898年のパリ講和条約ではキューバの独立が認められ、アメリカへのプエルトリコとグアムの割譲、フィリピンの2000万ドルでの譲渡となりました。独立が認められないフィリピンはアメリカと戦争しますが、圧倒的な武力に破れてアメリカの植民地となりました。1934年に世界恐慌が起こるとアメリカ人はフィリピン人のアメリカ流入に反対してフィリピンの独立を認める法律を可決しました。10年後にフィリピンは独立することとなり、フィリピンには内政の自治権が与えられ、翌年には大統領選挙が行われました。
マニラ湾
1898年のアメリカとスペインの戦争では、マニラ湾の海戦でアメリカ艦隊がスペインに勝利しました。
マニラ市街
1898年のパリ講和条約でアメリカに譲渡されました。アメリカ統治下ではアメリカと良好な関係を築きました。
日本軍のマニラ侵攻
1941年に太平洋戦争が勃発すると日本軍はフィリピンに侵攻してきました。マニラ北西部のリンガエン湾から上陸した日本軍は12日でマニラを占領し、マニラ西側のバターン半島とコレヒドール島にいたアメリカ・フィリピン軍も降伏しました。投降した7万人の捕虜は、収容所まで約80キロの道のりを移動するうちに約1万人が亡くなりました。食料もなく炎天下を長時間歩いた行動は、バターン死の行進と言われています。アメリカから独立が約束されていたフィリピンは、日本軍の占領により独立できなくなりました。日本軍は新たに政府をフィリピンに置いたため、フィリピン人はこれに反発して日本軍に対して抗日ゲリラを展開するようになります。
キロメートルゼロ
投降した7万人の捕虜は、この始点から収容所まで約80キロの道のりを移動するうちに約1万人が亡くなりバターン死の行進と呼ばれました。
サンチャゴ要塞
反日ゲリラを処刑するため、満潮で水没するサンチャゴ要塞の地下牢に閉じ込めて溺死させるなど、多くのフィリピン人を殺害しました。
マニラ市街戦
1944年に日本軍の敗戦が濃厚になると日本本土に近いフィリピンで激しい戦闘が行われました。物量に劣る日本軍は、ルソン島南部のレイテ島沖の海戦で初めて神風特攻隊による自爆攻撃を行いました。この戦いは太平洋戦争最後の海戦となり、日本海軍は事実上壊滅しました。日本陸軍はマニラに立て籠もり本土決戦までの時間を稼ぐために持久戦を行いましたが、フィリピンの人びとは日本軍を追い出すため激しい抗日運動を行いました。日本軍は徹底して市街地に潜んで抵抗したため、アメリカ軍はマニラ市街に爆弾を大量に投下して建物を破壊していきました。フィリピンでは日本軍52万人が亡くなり、フィリピン人の犠牲者は100万人に上りました。
日本軍の大砲跡
日本陸軍はマニラに立て籠もり本土決戦までの時間を稼ぐために持久戦を行いました。今も日本軍が設置した大砲が残されています。
メモラーレ・マニラ
子供を含む民間人が日本軍にゲリラ攻撃して大きな被害を与えたため、日本軍は多くのフィリピン民間人を殺害するマニラ大虐殺を起こしました。
生き残ったサンアグスチン教会
太平洋戦争によりマニラ市街は徹底的に破壊されましたが、スペイン植民地時代に建造されたサンアグスチン教会はマニラ市街戦でも破壊されずに残りました。1606年に建造されたサンアグスチン教会は、フィリピン初のスペイン建築様式の教会でフィリピン石造建設で最も古い教会の1つです。
サンアグスチン教会
アメリカ軍はマニラを空襲するにあたりサンアグスチン教会の周囲を避けた訳ではないようですが、奇跡的に破壊を逃れることができました。
サンアグスチン教会
スペイン統治時代に建造されたフィリピン最古の石造教会で、1993年に貴重な文化遺産として世界遺産に登録されました。
マルコス大統領の独裁政権
1945年に日本が降伏するとフィリピンはアメリカの統治下に戻ることになりましたが、1946年のマニラ条約により戦前の法律どおりフィリピンは独立することになりました。1966年に大統領に就任したマルコスは独裁政権を確立し、フィリピン各地で反乱が起きたことで厳戒令を敷いて憲法を廃止するなど強硬な政策を行いましたが、フィリピン経済を成長させるなどの成果を上げました。1974年にルパング島で発見された旧日本陸軍の生き残り小野田寛郎氏を保護し、マラカニアン宮殿で行われた投降式ではマルコス大統領も出席して、小野田氏を立派な軍人と讃え、フィリピンで犯した犯罪行為に恩赦を与えました。
マラカニアン宮殿
スペイン貴族の別荘はスペインやアメリカ統治時代は官邸となり、現在はフィリピン大統領官邸として使用されています。
マニラ湾
東洋の真珠と呼ばれたマニラに相応しい夕陽です。