歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

マニラ

フィリピン・マニラのサンチャゴ要塞

フィリピン・ルソン島中西部にあるマニラは、16世紀のスペイン人による植民地時代からフィリピンの首府としてあり続けています。正式名称をメトロマニラといい東洋交易の拠点として繁栄しました。マニラ湾を望む美しい町は東洋の真珠と讃えられます。

概要

面積
38.55km2
標高
16.0m
人口
178.0万 (2015年)
地図

特集

フィリピン・マニラのサンチャゴ要塞

スペイン統治時代の歴史

16世紀のスペイン人に征服されて植民地となり首都マニラが建設されました。ガレオン貿易により大いに栄えましたが、スペインの衰退とともに華僑が実権を握りました。

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フィリピン・マニラのリサール公園

フィリピン独立と太平洋戦争

スペインやアメリカの植民地となり、太平洋戦争の勃発により日本占領下に置かれることになりました。東洋の真珠と称えられたマニラは荒廃と化しました。

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歴史

マニラはスペイン植民地時代にフィリピンの首府として整備されました。ガレオン貿易で繁栄しましたが、スペインの衰退によりガレオン貿易は廃止され、フィリピンはアメリカに売却されました。アメリカの植民地下に置かれますが、第二次世界大戦で日本が侵略してマニラ大虐殺などが起こりました。

原始マニラ

フィリピンの原始時代は、約6万7千年前のアジア最古のホモサピエンスと言われているカヤオ人の人骨がカヤオ洞窟から発見されたことに始まります。リサール州ビナンゴナンでは紀元前3千年前の岩絵アンゴノ・ペトログリフが発見され、3万年前にはネグリト人が渡来してから原始マレー系、古マレー系、新マレー系が海を渡りフィリピンに定住したと言われます。フィリピンは熱帯のため太古の考古学資料は腐敗して詳細は分かりませんが、西暦900年頃にルソン島トンド王国はインド、アラブ、東アジア、東南アジアとの中継貿易で栄えるなど、宗教、言語、文化的な影響を受けた小さな海洋国家が点在していました。1521年にマゼランがフィリピンに来ると、1565年にスペインによる植民地化が始まりました。この植民地化によりフィリピンは初めて統一されます。

フィリピン・マニラのフィリピン人類学博物館

原始フィリピン

6万年前にアジア最古のカヤオ人が生活していました。

フィリピン・マニラのフィリピン人類学博物館_バイバイン

バイバイン

モンレアル石にタガログ語の起源バイバイン文字が刻まれます。

スペインによる支配

1521年にフィリピンに到達したマゼランは原住民をキリスト教に改宗して支配しようとしますが、マクタン島の部族長ラプラプはマゼランと戦い、マゼランを討ち取りました。スペイン王はレガスピをフィリピンに派遣し、1565年にセブ島を根拠地としてフィリピン部族の対立を利用しながら征服を続けました。1571年にレガスピはマニラ市を建設しフィリピンを支配しました。

フィリピン・マニラのラプラプ像

ラプラプ

マクタン島の戦いでマゼランを討ち取り、スペインを国外に追い出したフィリピンの英雄の一人です。

フィリピン・マニラのサンチャゴ要塞

サンチャゴ要塞

スペインが建造した城塞で、イントラムロスの北西で一番奥にある戦略上最も重要な場所に築かれた要塞です。

ガレオン貿易による繁栄

スペインは植民地としたフィリピン・マニラとメキシコ・アカプルコを結ぶ航路を開き、ガレオン船によるガレオン貿易を行うようになりました。マニラを拠点とするスペイン商人は、中国福建からの中国船がもたらす絹織物や陶磁器をメキシコに運び、帰りにメキシコ銀を大量に持ち帰りました。その銀が中国に流入し明から清にかけて中国経済の発展をもたらしました。

フィリピン・マニラの日本人町跡

日本人町跡

日本人の納屋助左衛門がルソン島との貿易で巨万の富を得るなど、最盛期には3千人もの日本人が暮らしました。

フィリピン・マニラのチャイナタウン

チャイナタウン

2万人を超える中国人はイントラムロスの大砲の射程距離内に居住させられました。世界最古の中華街を形成し、現地人との混血メスティーソが生まれました。

アメリカによる支配

1895年のキューバ独立闘争を端緒として1898年にスペインはアメリカとの戦争に発展しました。マニラ湾の海戦でアメリカ艦隊がスペインに勝利すると、アギナルドらはアメリカ軍を後盾としてフィリピン独立戦争を行いました。1898年のパリ講和条約ではキューバの独立が認められ、アメリカへのプエルトリコとグアムの割譲、フィリピンの2000万ドルでの譲渡となりました。独立が認められないフィリピンはアメリカと戦争しますが、圧倒的な武力に破れてアメリカの植民地となりました。

フィリピン・マニラのマニラ湾

マニラ湾

1898年のアメリカとスペインの戦争では、マニラ湾の海戦でアメリカ艦隊がスペインに勝利しました。

フィリピン・マニラのマニラ市街

マニラ市街

1898年のパリ講和条約でアメリカに譲渡されました。アメリカ統治下ではアメリカと良好な関係を築きました。

日本軍のマニラ侵攻

1941年に太平洋戦争が勃発すると日本軍はフィリピンに侵攻してきました。1944年に日本軍の敗戦が濃厚になると日本本土に近いフィリピンで激しい戦闘が行われました。物量に劣る日本軍は、ルソン島南部のレイテ島沖の海戦で初めて神風特攻隊による自爆攻撃を行いました。この戦いは太平洋戦争最後の海戦となり、日本海軍は事実上壊滅しました。日本陸軍はマニラに立て籠もり本土決戦までの時間を稼ぐために持久戦を行いましたが、フィリピンの人びとは日本軍を追い出すため激しい抗日運動を行いました。

フィリピン・マニラの日本軍の大砲跡

日本軍の大砲跡

日本陸軍はマニラに立て籠もり本土決戦までの時間を稼ぐために持久戦を行いました。今も日本軍が設置した大砲が残されています。

フィリピン・マニラのメモラーレ・マニラ

メモラーレ・マニラ

子供を含む民間人が日本軍にゲリラ攻撃して大きな被害を与えたため、日本軍は多くのフィリピン民間人を殺害するマニラ大虐殺を起こしました。