黒石市

黒石市は青森県のほぼ中央に位置し、美しい自然と豊富な温泉に恵まれています。黒石米や黒石りんごの産地で、黒石つゆ焼きそばや黒石よされ鍋などの名物料理もあります。黒石ねぷた祭りや大川原の火流しなどのイベントが行われ、黒石よされは日本三大流し踊りのひとつとされています。
概要
- 面積
- 217.05km2
- 人口
- 31,226人(2022年2月1日)
- 市の木
- もみじ
- 市の花
- りんご
- 市の鳥
- セグロセキレイ
- 地図
歴史
鎌倉時代後期から南部氏が支配しましたが、津軽為信が南部氏に反旗を翻して津軽地方を制圧しました。津軽為信は津軽地方の領有が認められて、弘前藩津軽氏の支配下に置かれました。津軽信英が黒石郷を与えられ、のちに1万石となり黒石藩が立藩しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
古くから人の営みがあり、250カ所以上の縄文遺跡があると言われます。縄文時代前期の花巻遺跡からは竪穴住居跡1棟、土壙跡20基、石棺墓10基などが見つかりました。縄文時代後期の一ノ渡遺跡から配石を伴う土壙墓が見つかりました。縄文時代の遺跡はありますが、弥生時代の遺跡は見られていません。
古墳時代、飛鳥時代
古墳は見つかりませんが、浅瀬石遺跡から31軒の竪穴住居跡が見つかり、うち数件は奈良時代に構築されたものでした。
奈良時代、平安時代
平安時代は安東氏が支配したと見られていますが、あまり記録が残されていません。甲里見遺跡では平安時代前期の竪穴住居跡3棟が見つかり、土馬や手捏ね土器、勾玉など律令祭祀遺物が出土しました。平安時代後期には牡丹平南遺跡から集落跡が見つかりました。高館遺跡は製鉄や鍛治が行われていたと推察されています。
鎌倉時代、南北朝時代
安東一族の内紛が起きたことで、鎌倉幕府の御家人である工藤貞行が派遣されて黒石郷を支配しました。工藤貞行の娘・加伊寿御前が八戸の南部信政に嫁いだことで、工藤貞行没後に黒石郷は加伊寿御前の子・南部信光に与えられました。
室町時代、安土桃山時代
黒石郷は南部家臣の浅瀬石城主千徳家の領有となりますが、慶長2年(1597年)に南部氏に反旗を翻した大浦為信が、浅瀬石城の千徳政康を滅ぼして津軽一帯を支配下に置きました。
江戸時代
津軽為信が弘前藩を立藩して支配下としていますが、明暦2年(1656年)に津軽十郎佐衛門信英が弘前藩から黒石郷を分地されました。万治3年(1660年)に田山藤左衛門の指揮により田川堰が開通しました。文化6年(1805年)に1万石となり黒石藩と呼ばれるようになりました。

こみせ通り
中町のこみせ通りは、藩政時代から今に残る風情ある通りです。こみせとは雪や雨をしのぐために作られたアーケード状の通路のことで、雪国特有のものです。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で黒石県となり、弘前県に併合されたあと青森県となりました。城下町として繁栄していたことから、南津軽郡の政治、経済の中心として先導的な役割を果たし、昭和29年(1954年)に黒石市が誕生しました。昭和63年(1988年)に津軽こけし館が完成し、伝統芸能を発信し続けています。

金平成園(澤成園)
加藤宇兵衛に招かれた高橋亭山が作庭に着手し、明治35年(1902年)に弟子の小幡亭樹らが完成した大石武学流の代表的な作庭様式の庭園です。

日本一のジャンボこけし
高さ4メートルの日本一の高さを誇るこけしです。津軽伝統こけしは大正初めころに黒石市温湯温泉で作り始められたと言われ、頭部と胴部が一本の木から作られています。