歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

つがる市

青森県つがる市のベンセ湿原

つがる市は青森県の西北部に位置し、津軽平野の中央部から西に位置します。海岸線は七里長浜と呼ばれ、海岸沿いには屏風山砂丘地と呼ばれる丘陵地帯が続いています。四季が明瞭で稲作や夏秋野菜の栽培が盛んです。国指定重要文化財の遮光器土偶が出土した亀ヶ岡石器時代遺跡などの縄文遺跡が多数残されています。

概要

面積
253.55km2
人口
30,146人(2022年2月1日)
市の木
クロマツ
市の花
ニッコウキスゲ
市の鳥
カッコウ
地図

歴史

つがる市に残されている113の遺跡のうち、83カ所が縄文遺跡になります。縄文時代前期中頃から末期の田小屋野貝塚や縄文時代晩期の亀ヶ岡石器時代遺跡があります。江戸時代初期には新田開発が行われ、津軽平野は一大穀倉地帯となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の丸山遺跡から黒曜石製の細石刃などが見つかりました。縄文時代前期中頃から末期の田小屋野貝塚は日本海側に数少ない貝塚を有する貴重な集落遺跡で、縄文時代晩期の亀ヶ岡石器時代遺跡は遮光器土偶を始めとする優れた土器や土偶が見つかり、北日本を中心とする亀ヶ岡文化の名称の由来となりました。

青森県つがる市の出来島埋没林

出来島埋没林

七里長浜の海食崖に露出している埋没林で、最終氷期の約3万年前に生育したアカエゾマツとカラマツ属の針葉樹林と考えられています。

青森県つがる市の田小屋野貝塚

田小屋野貝塚

縄文時代前期から中期に造営された日本海側では珍しい貝塚を伴う集落遺跡です。竪穴建物跡や貝塚のほか、土壙墓から成人女性の人骨が出土しています。

青森県つがる市の亀ヶ岡石器時代遺跡

亀ヶ岡石器時代遺跡

縄文時代晩期の大規模な共同墓地で、多数の土坑墓が構築されました。芸術性豊かな大型遮光器土偶を始め、朱塗り土器や漆器などが多数出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

続縄文時代が続いて古墳は築造されておらず、八重菊遺跡から後北式土器が出土しています。

奈良時代、平安時代

岩木山北麓の森田地区には製鉄に関連する遺跡が多く、八重菊遺跡や豊原遺跡では砂鉄を原料とする製錬炉跡が発見されています。津軽平野の微高地をなす自然堤防上に大和朝廷勢力との交流が想定される木造蓮川の石上神社遺跡などがあります。

鎌倉時代、南北朝時代

特に記録は見つけられませんでした。

室町時代、安土桃山時代

室町時代末期頃に鼻和郡の一部となりました。

青森県つがる市の高山稲荷神社

高山稲荷神社

鎌倉から室町時代に安東氏の祈願所として創建しました。江戸時代の赤穂藩の改易により、寺坂三五郎が赤穂城の稲荷大神を遷座しました。

江戸時代

慶長2年(1597年)に津軽氏の領地である田舎郡の一部となりました。2代藩主・津軽信枚は木造新田開発の拠点として、元和8年(1622年)に亀ヶ岡城の築城を始めますが、一国一城令により築城が中止されました。それでも新田開発は続き、防砂林として日本海に並行して屏風山の松林が造営され、拓かれた広大な津軽平野は一大穀倉地帯となりました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治22年(1889年)にアメリカの帆船チェスボロー号が七里長浜沖で座礁し、船員23名のうち4名のみ生存する大事故となりました。明治36年(1903年)に始まる馬の競市は大変賑わい、農耕馬の市として東北三大馬市に数えられました。平成17年(2005年)に旧木造町、旧森田村、旧柏村、旧稲垣村、旧車力村が合併してつがる市となりました。

青森県つがる市の日本最古のりんごの木

日本最古のりんごの木

明治11年(1878年)に栽植されたリンゴの木のうち、現存する紅絞2本と祝1本が青森県天然記念物にしていされています。

青森県つがる市のチェスボロー号慰霊碑

チェスボロー号慰霊碑

座礁事故を受けて、村の若者2名が救助を求めて64キロ離れた県庁まで走り、工藤はんが遭難者を人肌で温めて蘇生させるなど懸命な救助活動が行われました。