平川市

平川市は青森県の南部で津軽平野の南端に位置します。平地は岩木川水系の平川とその支流である浅瀬石川の恵みで肥沃な大地を形成し、緩やかな傾斜地から台地ではリンゴ栽培が盛んに行われています。毎年8月には平川ねぷたまつりが開催されています。
概要
- 面積
- 346.01km2
- 人口
- 30,240人(2022年2月1日)
- 市の木
- クロマツ
- 市の花
- リンゴの花
- 市の鳥
- ウグイス
- 地図
歴史
肥沃な大地は古くから穀倉地帯として人の営みを支え、環状列石を伴う縄文遺跡などとして残されています。江戸時代に大規模な新田開発が進み日本有数の穀倉地帯となり、裕福な大庄屋が築造した見事な庭園がこれまでの繁栄を物語ります。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から人の営みが残されており、古くから肥沃な土壌を利用した穀倉地帯として栄えました。縄文時代前期から晩期の四戸橋遺跡や環状列石や組石石棺墓群を主体とした太師森遺跡が形成し、縄文時代後期の堀合遺跡、石郷遺跡、八幡崎遺跡から石棺墓などが見つかりました。

八幡崎遺跡
縄文時代晩期の低湿地・泥住層遺跡で、大洞式土器や藍胎漆器などが見つかりました。低台地西端に位置し、遺跡上には八幡宮が鎮座しています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代終末期の原遺跡には19基の古墳が残されています。仁徳天皇55年(367年)に上毛野君田道が蝦夷討伐に派遣され、伊寺水門で戦死して猿賀に葬られました。蝦夷の人びとが上毛野君田道の墓を暴こうとしたところ、大蛇が現れて多くのものを噛み殺した伝説が残されています。
奈良時代、平安時代
延暦12年(793年)に蝦夷討伐を行う坂上田村麻呂は、上毛野君田道の墓で戦勝祈願しました。坂上田村麻呂は蝦夷討伐を完了し、大同2年(807年)に勅命で社殿が造営されて猿賀神社となりました。

猿賀神社
猿賀には蝦夷討伐で戦死した上毛野君田道の墓所が置かれていましたが、坂上田村麻呂が蝦夷平定を成し遂げて社殿が造営されて猿賀神社となりました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代に平賀郡が置かれました。鎌倉御家人である曽我氏が北条義時の地頭代として入植し、大光寺城を築いて領土経営を行いました。正慶2年(1333)に鎌倉幕府が滅ぶと北条一族の安達高景と名越時如が曽我氏を頼り身を寄せたため、周辺領主との騒乱に巻き込まれました。曽我氏は南北朝期に北朝に与したため、南朝方の南部氏と争い衰退していきました。
室町時代、安土桃山時代
安東氏の一族が大光寺氏を名乗り支配しますが、南部氏が進出して支配されました。天正3年(1575)に津軽為信が南部氏から独立して平賀郡一帯を平定すると、秋田比内の浅利城主を襲うために険阻な矢立峠を切り開き関所を設けました。
江戸時代
羽州街道の整備に伴い碇ヶ関は関所が設けられ、温泉がある宿場町として参勤交代のときの藩主の御仮屋となりました。近江の商人が猿賀村の新田を開き、氏田弥左衛門と清藤半十郎が猿賀新田村(のちの尾上村)を形成しました。

清藤氏書院庭園
寛永年間(1624~43年)に朝廷の公卿花山院忠長卿が唐糸御前を弔う意味を込めて整備した庭園を江戸時代に京都の茶人・野本道玄が手を加えたとされます。
明治時代、大正時代、昭和時代
昭和59年産米では10アール当たりの収穫量が日本一に輝くなど良質米多収地として名を馳せてきました。平成18年(2006年)に旧平賀町、旧尾上町、旧碇ヶ関村が合併して平川市となりました。

盛美園
明治44年(1911年)に清藤盛美が小幡亭樹を招いて整備した泉枯山水廻遊式庭園の一角に盛美園が建造されました。借りぐらしのアリエッティのモデルでもあります。