歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

東津軽郡

青森県東津軽郡の高野崎

東津軽郡は、夏泊半島に位置する平内町と陸奥半島の今別町、蓬田村、外ヶ浜町で構成されます。陸奥湾に面するため水産業が盛んで、平内町は養殖ホタテで日本一の生産量を誇ります。今別町の伝統芸能・荒馬は夏の風物詩とされています。平内町は白鳥の飛来地として知られています。

概要

面積
653.49km2
人口
19,682人(2022年2月1日)
含む町村
平内町、今別町、蓬田村、外ヶ浜町
地図

歴史

津軽半島の先端に位置する地勢を活かして、鎌倉時代に勢力を広げた安東氏は水軍を擁して蝦夷との海上交易で繁栄しました。江戸時代には蟹田湊などが北前船や廻米船の寄港地として栄えますが、異国船が現れて上陸する事件を招きました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代後期から縄文時代創成期の移行を示す石器などが大平山元遺跡から見つかりました。縄文時代前期から晩期の玉松台遺跡では漁網用の錘などが見つかり、縄文時代晩期の宇鉄遺跡からは、縄文時代晩期の遺物のほか弥生時代中期の土器や石器類などが見つかりました。

青森県東津軽郡の大平山元遺跡

大平山元遺跡

縄文時代創成期の遺跡で北東アジア最古の土器が見つかりました。世界的に最も古い石鏃も見つかり、旧石器時代から縄文時代への移行期の遺跡とされています。

古墳時代、飛鳥時代

特に記録は見つけられませんでした。

奈良時代、平安時代

蓬田川の左岸に位置する蓬田大館遺跡は、10世紀から11世紀にかけて空堀で囲まれた集落が見つかりました。集落からは鉄を生産する際にできる鉄滓や製塩土器などが出土しています。奥州平泉で自刃した源義経が竜飛崎まで逃げ延びて、観音様を祈り現れた龍馬で渡海した伝説が残されています。

鎌倉時代、南北朝時代

平内地区は平内郷と呼ばれ南部領糠部郡に所属し、津軽半島先端の外ヶ浜は安東氏が支配しました。文永5年(1268年)の文永の蝦夷の乱で安東氏が討たれる事件が起き、文保2年(1318年)から安東季長と従兄弟の安東季久が蝦夷管領職を巡り内紛となりました。南北朝時代には安東家季が北朝方となり、安東祐季が南朝方として争いました。

室町時代、安土桃山時代

安東一族は津軽の覇権を巡り南部氏と対立するようになりました。興国元年(1340年)の大津波で安東氏の福島城や唐川城が壊滅状態となり、南部守行の侵攻を支えきれず蝦夷に落ち延びました。天正13年(1585年)に南部一族の津軽為信が主家に反旗を翻して奥瀬善九郎の油川城を攻略すると、蓬田城主蓬田越前や大開城主平杢之助俊忠は南部氏を頼り逃走し、平内郷を支配していた七戸隼人は津軽為信の軍門に下りました。

江戸時代

津軽平定を成し遂げた津軽為信は弘前藩を立藩し、その支配下に置かれました。明暦2年(1656年)に平内郷は黒石津軽家の津軽信英に与えられて黒石藩の飛地とされました。平内郷は津軽・南部両藩の紛争が繰り返されたため、四ッ森と呼ばれる藩境塚が整備されました。天明3年(1782年)に始まる天明の大飢饉で多くの餓死者を出しました。蟹田湊などは北前船や廻米船の寄港地として栄えますが、弘化4年(1847年)に平舘に異国船が現れて外国人8人が上陸したことを受け、嘉永2年(1849年)に弘前藩が平舘台場を築造しました。

青森県東津軽郡の藩境塚

藩境塚

南部領と津軽領の境界の目印として旧奥州街道沿いに築かれた土盛りの塚で、藩境には番所が設けられて通行人や物資の出入りの取締りが行われました。

青森県東津軽郡の平舘台場跡

平舘台場跡

嘉永2年(1849年)に弘前藩が構築した砲台跡です。やや扇形をした土塁に囲まれており、大砲を据えたと考えられる窪地が7つ残されています。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1868年)の廃藩置県で藩は廃止されて弘前県と黒石県となり、これらが弘前県に統合されたあと青森県に改名されました。明治6年(1870年)の地租改正で地主と小作人の封建的な関係が強まり騒動が起こるようになりました。昭和20年(1945年)にアジア太平洋戦争の終結に伴う農地改革により農民は自分の土地を持つようになり、長い窮乏生活から抜け出すようになりました。