北津軽郡

北津軽郡は津軽平野にある鶴田町、板柳町と津軽半島北西部の日本海に面する中泊町で構成されます。鶴田町や板柳町は岩木川と十川に挟まれた平坦な土地で水田やリンゴ栽培が盛んで、鶴田町はブドウの品種スチューベンの生産量が日本一です。中泊町は岩木川が流れ農業が盛んなうえ、日本海に面して豊穣な漁場があることも特徴です。
概要
- 面積
- 304.65km2
- 人口
- 33,442人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 板柳町、鶴田町、中泊町
- 地図
歴史
古くから人の営みが残されており、縄文時代の遺跡が多く残されています。鎌倉時代から安東氏や南部氏が覇権を争い、津軽氏が支配する藩政時代に多くの新田が開発されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代前期の中里寺屋敷遺跡や縄文時代中期の笹館遺跡から掘立建物跡などが見つかります。縄文時代後期の亀ヶ岡文化期に形成した土井遺跡を拠点としていた人びとは、縄文時代末期に稲作を特徴とする弥生文化を受け入れていきました。
古墳時代、飛鳥時代
大和王権から蝦夷が住む地とされ、斉明4年(658年)に阿倍比羅夫が蝦夷討伐に派遣されました。この頃から大和王権との接触が始まりました。
奈良時代、平安時代
前九年の役で戦死した安倍氏の頭領・安倍貞任の遺児の高星丸が藤崎に落ち延び、安東氏をおこして藤崎城を本拠地としたと伝えられます。

中里城遺跡
縄文時代から室町時代にかけて使われた集落で、平安時代には空堀や土塁などで囲まれた防御的な施設を備えた環濠集落が形成していました。
鎌倉時代、南北朝時代
元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡すると、津軽地域の豪族も朝廷方と幕府方にわかれて争うようになりました。
室町時代、安土桃山時代
永禄元年(1558年)に浪岡北畠氏から分かれた北畠左衛門尉顕範氏が古館城を構えました。十三湊を拠点としていた安東氏は、嘉吉2年(1442年)に南部義政に敗れて北海道へ落ち延びました。天正18年(1590年)に大浦為信が津軽地方を統一して津軽姓を称するようになりました。文禄2年(1593年)に津軽為信は岩木川を利用した舟運の川湊を板柳の船岡に開設しました。
江戸時代
万治元年(1658年)に大川作右衛門や加賀谷弥八郎により富野村が開拓されました。万治3年(1660年)に4代藩主・津軽信政が樋口権右衛門を奉行に任命し、柏村地方の用水補給のために廻堰大溜池(津軽富士見湖)が造営されています。慶長年間(1596~1613年)に斉藤兵庫助や木村弥次郎らが胡桃館を開村しました。
津軽富士見湖の伝説
清水城主・間山之守三郎兵衛忠勝は、狩りの帰りに訪れた太右衛門の家で白上姫に一目惚れしました。二人は愛し合うようになりましすが、忠勝は琴姫と婚約しました。白上姫は忠勝に会いに行くと、この日は忠勝と琴姫の婚礼の日でした。白上姫は悲しみのあまり富士見湖に身を投げてしまい、龍と化して忠勝を苦しめるようになりました。忠勝は狂乱して自分の妻を切り捨て、自らも富士見湖に身を投じました。村人たちは白上姫の祟りと忠勝の無念を弔うため、富士見湖のほとりに十和田神社を建てて供養しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治8年(1875年)に五林平の米田慶助がリンゴの苗木を試植して栽培が始まりました。明治23年(1890年)に岩木川に初めて幡龍橋が架橋し、大正7年(1918年)に陸奥鉄道が開通したことで商圏が拡大しました。

宮越家離れ・庭園
大正9年(1920年)に宮越正治が夫人のために造営した建築物と庭園です。離れの詩夢庵と枯山水・池泉庭園を融合した静川園で構成されます。

鶴の舞橋
平成6年(1994年)に廻堰大溜池に架橋した日本一長い三連太鼓橋です。橋を渡ると長生きができると言われています。