奥州藤原氏が築いた理想郷

奥州の戦乱を制した藤原清衡は、平泉に本拠を移して平等思想に基づく極楽浄土の仏国土を築こうとしました。藤原清衡の願いは基衡、秀衡と受け継がれ、奥州藤原氏三代がおよそ百年にわたり独自の文化を開花させました。やがて鎌倉幕府により奥州藤原氏は終焉を迎えますが、奥州を支配した源頼朝は平泉の安全を保つよう御家人の葛西清重に命じました。
前九年の役で生まれた火種
11世紀後半に東北地方に古くから住んでいた蝦夷を抑えていた安倍氏は、大和朝廷の政策に反発して反旗を翻しました。康平5年(1062年)に朝廷から派遣された源頼家は、清原武則の協力を得て安倍頼時を討伐し、陸奥国奥六郡は清原氏に受け継がれました。この前九年の役を経て家督を受け継いだ清原武貞は、反乱を起こした安倍頼時の娘で藤原経清の未亡人・有加一乃末陪を妻に迎えて清原家衡をもうけますが、この関係が有加一乃末陪の連れ子である清原清衡と新たな火種を生むことになります。
後三年の役
清原武貞の跡を継いだ清原真衡が病没すると、源頼家は清原真衡の遺領を清原清衡と家衡に分配しました。異父弟の清原家衡はこの領地分配に不満を抱き、応徳3年(1086年)に清原清衡の屋敷を襲撃して妻子を殺害しました。清原清衡の救援に応じた源義家は、寛治元年(1087年)に清原家衡が籠る金沢柵に対して日本で初めて兵糧攻めを行い清原家衡を破りました。

さくら山
奥六郡を統治した安倍頼時は駒形峰を中心に一万本もの白桜を植えたと伝わり、駒形峰から束稲山の山域は西行の古歌を通じて桜花の名所となりました。

雁行の乱れ
後三年の役で源義家が進軍しているとき、雁の乱れを目撃して敵の伏兵を察知して敵兵を討ち取った逸話が残されています。
藤原清衡と平泉のはじまり
寛治2年(1088年)に奥六郡を与えられた清原清衡は、藤原姓に改めて奥州藤原氏の祖となりました。藤原清衡は江刺郡豊田館から京都に類似した地形で水運や陸運の要衝地の大穀倉地帯である平泉に本拠を移し、長治2年(1105年)に戦乱の犠牲者の霊を敵味方の区別なく慰めるため中尊寺の造営に着手しました。
中尊寺
藤原清衡は法華経に深く帰依し平等思想に基づく仏国土を平泉に現そうとしました。平泉の中心となる関山に一基の塔を建て、境内の中央に釈迦如来や多宝如来が並座する多宝寺を建立し、百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立しました。これら三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、生あるものすべてを過去世から現世、さらに未来世に至るまで仏国土に導きたいという切実な願いでした。

柳之御所
奥州藤原氏の祖である藤原清衡が豊田館から平泉に移り居館を構えた所で、3代藤原秀衡が鎮守府将軍・陸奥守に任ぜられて政庁・平泉館として整備されました。

金色堂
奥州藤原氏三代のミイラが安置されています。金箔で輝く内陣は南洋からシルクロードを経て運ばれた夜光貝、螺鈿細工や象牙などが施されます。
藤原基衡と毛越寺
藤原清衡が死去して家督争いを制した藤原基衡が2代当主となり、先代の藤原清衡の遺志を継いで仏教を中心とした平泉の街づくりをさらに発展させていきました。奥州藤原氏は北海道との交易で大鷲の羽、水豹(アザラシ)の皮などを得て、日本海側から九州を経由する大陸との交易で莫大な富を築き、豊かな財力を活かして毛越寺の復興に着手しました。
毛越寺と観自在王院
毛越寺は嘉祥3年(850年)に天台宗の高僧・慈覚大師が創建したと伝えられ、根本中堂を嘉祥寺と称して慈覚大師が自作した医王善逝の霊像を本尊としています。のちに荒廃しますが、2代藤原基衡と3代藤原秀衡が再建しました。毛越寺の隣には藤原基衡の妻が観自在王院を建立しています。

毛越寺
2代藤原基衡から3代藤原秀衡にかけて復興されました。藤原秀衡の頃には堂搭40、僧坊500余りあり、中尊寺をしのぐほどの規模でした。

毛越寺浄土庭園
浄土庭園は平安時代から鎌倉時代にかけて盛んに作られた日本庭園で、極楽浄土に至り成仏する浄土思想を大きく受けています。

観自在王院跡
藤原基衡の妻が毛越寺の隣に建立した寺院跡で、天正元年(1573年)の兵火で焼失しました。発掘された庭園は日本最古の庭園書・作庭記の作法どおりです。
最盛期を迎えた藤原秀衡
3代藤原秀衡のときに平泉は最も栄えました。奥州藤原氏は名産の馬や金山から得た豊富な財力で中央政権や寺社へ寄進しての評価を高め、藤原秀衡は鎮守府将軍・陸奥守まで与えられて名実ともに東北地方の支配者となりました。
無量光院
藤原秀衡は毛越寺の再建を継続したほか、無量光院を建立しました。宇治の平等院鳳凰堂を模した本堂を建て、背後の金鶏山山頂を夕陽が沈むように設計されています。無量光院は平等院鳳凰堂よりも規模が大きいと推定されています。

無量光院跡
平等院鳳凰堂を模した本堂の背後にある金鶏山に沈む夕日が極楽浄土を表現しました。無量光院の庭園は浄土庭園の最高傑作といわれています。

金鶏山
藤原秀衡が北上川まで人夫を並べて一晩で築いた造り山との伝承が残り、平泉鎮護のための雌雄一対の黄金の鶏を埋めた伝承により名付けられました。
奥州藤原氏の滅亡
平泉はおよそ100年近く戦争がない平和な時代が続きましたが、兄の源頼朝と対立した源義経が落ち延びて状況は一変しましました。藤原秀衡は源義経を保護しましたが、藤原秀衡が病死して藤原泰衡が当主に就くと源頼朝の圧力に耐えかねて源義経を自害に追い込みました。藤原泰衡は源義経の首を源頼朝に差し出しますが、文治5年(1189年)に源義経を自害に追い込んだ罪で平泉は攻められて奥州藤原氏は滅亡しました。

高館
藤原秀衡を頼り奥州へと落ち延びた源義経が居城を構えていたと伝えられる場所で、藤原泰衡に攻められて源義経が最期を迎えました。

武蔵坊弁慶の墓
藤原泰衡に攻められた源義経を守るため、弁慶は立ち往生して最後を遂げたと伝えられます。弁慶の遺体はここに埋葬されています。

源義経公妻子の墓
藤原泰衡に急襲された源義経は、正妻・郷御前と子の亀鶴丸とともに自害したとされます。金鶏山の麓に残る五輪塔は源義経の妻子の墓とされています。