歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

西磐井郡

岩手県西磐井郡の夜景

岩手県西磐井郡は岩手県南部に位置する県内で最も小さい市町村です。奥羽山脈から張り出す平泉丘陵の間にあり盆地の中央を北上川が南流します。奥州藤原文化発祥の地で平泉丘陵の東端に平安時代末期の遺跡が多く残ります。

概要

面積
63.39km2
人口
7,132人(2021年11月1日)
含む町村
平泉町
地図

特集

岩手県西磐井郡の中尊寺金色堂

奥州藤原氏が築いた理想郷

藤原清衡が平泉に本拠を移して極楽浄土の仏国土を築こうとした願いは基衡、秀衡と受け継がれ、奥州藤原氏三代がおよそ百年にわたり独自の文化を開花させました。

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歴史

平安時代に藤原清衡が平泉に本拠を移し、平等思想に基づく極楽浄土の仏国土を築こうとしました。藤原清衡の願いは基衡、秀衡と受け継がれ、奥州藤原氏三代がおよそ百年にわたり独自の文化を開花させました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

縄文時代後期以降の遺跡が残されています。縄文時代後期の新山権現社遺跡からは239点の土偶が出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

かつて東北地方は大和政権の力が及ばない蝦夷が住む土地でした。大和朝廷は7世紀末から次第に北方に支配領域を拡大し、統治の拠点として胆沢城や秋田城を置きました。新たな土地は岩手郡、志波郡、稗貫郡、和賀郡、江刺郡、胆沢郡の陸奥国奥六郡と呼び安倍氏や清原氏が統治しました。

奈良時代、平安時代

天平13年(741年)に国分寺創建の詔を出した聖武天皇は、東大寺大仏の建立を発願しました。大仏建立に必要な金が不足したため事業の継続が危ぶまれましたが、天平感宝元年(749年)に金が産出され、天平勝宝4年(752年)に東大寺大仏が開眼しました。蝦夷征討を進める大和王権は坂上田村麻呂を征夷大将軍として、延暦11年(792年)に蝦夷のアテルイと平泉周辺で戦いました。

奥州平泉の仏教文化

奥州の戦乱を制した藤原清衡は、平泉に本拠を移して平等思想に基づく極楽浄土の仏国土を築こうとしました。藤原清衡の願いは基衡、秀衡と受け継がれ、奥州藤原氏三代がおよそ百年にわたり独自の文化を開花させました。

岩手県西磐井郡の達谷窟

達谷窟

延暦20年(801年)に坂上田村麻呂が蝦夷討伐の戦勝記念と仏の加護への感謝を込めて造営したと伝えられています。

岩手県西磐井郡の金色堂

中尊寺境内

奥州藤原氏の祖である藤原清衡が再建した寺院で、奥州藤原氏三代のミイラと最後の当主藤原泰衡の首が安置されています。

岩手県西磐井郡の毛越寺浄土庭園

毛越寺庭園

浄土庭園は平安時代から鎌倉時代にかけて盛んに作られた日本庭園で、極楽浄土に至り成仏する浄土思想を大きく受けています。

岩手県西磐井郡の無量光院跡

無量光院跡

平等院鳳凰堂を模した本堂の背後にある金鶏山に沈む夕日が極楽浄土を表現しました。無量光院の庭園は浄土庭園の最高傑作といわれています。

鎌倉時代、南北朝時代

文治5年(1189年)に鎌倉軍が平泉に侵攻して奥州藤原氏が滅亡しますが、奥州を支配した源頼朝は平泉の安全を保つよう御家人の葛西清重に命じています。鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代に入ると、建武3年(1336年)に北畠顕家が鎮守府将軍として平泉に駐在しました。

室町時代、安土桃山時代

平泉は急激に衰退して江戸時代を迎えるまで中尊寺金色堂を除きすべての建物が焼失しました。天正18年(1590年)に全国を統一した豊臣秀吉は奥州仕置で、葛西氏が改易されました。

江戸時代

荒廃した平泉が再び脚光を浴びたのは、元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が奥の細道の旅で訪れたことです。松尾芭蕉はかつて奥州藤原文化が栄えた田園風景を見て「夏草や兵どもが夢の跡」と詠み、中尊寺金色堂で「五月雨の降り残してや光堂」と詠みました。気仙郡高田村出身の相原友直は平泉の調査・研究を行い、平泉実記、平泉旧蹟志、平泉雑記に纏めました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で一関県に属することになり、翌年に一関県が水沢県に改称されました。明治9年(1876年)には岩手県の管轄となり、同年7月には明治天皇が東北巡幸で訪れて平泉の保護を指示しました。平泉は保存整備が進み、平成23年(2011年)に世界遺産に登録されました。