磐司磐三郎伝説が残る秋保郷

磐司磐三郎伝説が残る秋保郷は、平安時代に慈覚大師円仁が訪れて磐司磐三郎を仏の教えに改心させて秋保大滝不動堂を建立した伝承が残ります。秋保郷は秋保氏が統治するようになり、戦乱により秋保大滝不動堂は衰退しますが、江戸時代後期に知足上人により再興されました。
磐司磐三郎伝説
その昔小東峠を越えようとしていた姫は、突然の腹痛に見舞われてしまいました。そこに異様な怪人が現れて姫は恐れのあまり失神してしまいました。姫が目を覚ますとそこは洞窟で、大猿の介抱により不思議にも腹痛は癒えていました。姫は大猿と山窟生活をはじめ、磐司と磐三郎の兄弟を産みました。

磐司
二口峡谷にある柱状節理の大連壁で、伝承では磐司にある大岩窟の上人洞で磐司磐三郎が生まれ育ちました。
慈覚大師円仁の訪問
平安京に遷都した桓武天皇は、真言密教と天台密教を拠り所とした仏教により蝦夷を感化しようとしました。天台密教を開いた最澄の弟子である慈覚大師円仁は、仏教の布教のため陸奥国を訪れて名取川の渓谷にある磊々峡の景観を見て聖地と悟りました。慈覚大師円仁は寺院建立を目指しましたが、地元住民の協力が得られずこれを断念して出羽国の山寺へと向かいました。

磊々峡
名取川の清流に洗われた岩肌が見事な景観を生み出した渓谷で、昭和6年(1931年)に夏目漱石の門下で東北大学名誉教授の小宮豊隆が磊々峡と命名しました。

覗橋ハート
磊々峡には八間巌、鳴合底、鬼面巌などの奇勝や時雨滝、三筋滝などの滝があり、ハート型の岩のくぼみは平成26年(2014年)に恋人の聖地に認定されました。
秋保大滝不動堂の建立
磊々峡を離れた慈覚大師円仁は、新天地を求め出羽国へ向かう途中に秋保大滝の壮観さに心を打たれて不動尊を安置しました。さらに歩を進めて二口峠に差し掛かると、磐司磐三郎兄弟が現れて慈覚大師に襲い掛かりました。慈覚大師は磐司磐三郎に仏の教えの尊さを説き、慈覚大師の尊い心に感動した磐司磐三郎は盗賊をやめて仏の教えを信じて山寺を開く手伝いを熱心にしました。
鬼屋敷の鬼退治
二口街道には、旅人を屋敷に泊めて財貨をかすめ取る鬼屋敷がありました。この話を聞いた磐司磐三郎兄弟は、すでに慈覚大師円仁の説法で改心していましたが、鬼屋敷の鬼を追い払う決意をします。磐司磐三郎兄弟は磐司岩の頂上から鬼屋敷に弓を放ち、この武勇を恐れた鬼は逃げ去りました。

秋保大滝
高さ55メートル、幅6メートルあり、那智滝(和歌山県)華厳滝(栃木県)と共に日本三大名爆とされています。

秋保大滝不動堂
真言宗智山派の滝本山西光寺の寺院で、慈覚大師円仁が不動明王を本尊とする立石寺奥之院として創建したとされています。
秋保氏による統治
室町時代に秋保郷を領主していた平盛房は、明応9年(1500年)に深谷大曲城主・永井掃部晴信に攻められて最上氏を頼り山形に流浪の身となりました。天童に留まること10年余り、所領を取り戻すべく信州(長野県)の諏訪大社に必勝祈願をして天童に戻ると、秋保郷は永井氏の悪政で民が苦しんでいる状況でした。秋保郷の民は平盛房を天童より迎え入れ、永正8年(1511年)に永井氏の居城戸崎城を攻め滅ぼして所領を回復し秋保姓に改めました。のちに秋保氏は伊達氏に従い、秋保郷は出羽国の最上氏の侵攻を防ぐ最前線となりました。

秋保神社
坂上田村麻呂が東北を治める際に熊野神社から勧請したことが始まりで、平盛房がこの地に勧請して秋保郷の守護神として崇拝しました。
秋保大滝不動尊の中興
秋保大滝不動尊は長い歴史の中で興隆と衰退を繰り返してきましたが、現在の伽藍は江戸時代後期に知足上人により再興され、文政8年(1825年)に不動堂が再建されました。知足上人は文政11年(1828年)に衆生済度を発願して秋保大滝に身を投じて遷化しました。

開山知足堂
不動堂の建立に大きな功績を残した知足上人を祀る仏堂で、知足上人の木像彩色座像が安置されます。

新山大権現
知足上人は文政11年(1828年)に衆生済度を発願して大滝に身を投じて遷化し、文政13年(1830年)に新山大権現として知足上人を祀りました。