歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

仙台市

宮城県仙台市街

仙台市は宮城県のほぼ中央に位置する東北地方最大の都市です。伊達政宗が居城を定めてから城下町として発展し、東北地方の政治や経済の中心地になりました。大都市でありながら自然と調和した都市機能は、杜の都と呼ばれています。

概要

面積
786.30km2
人口
1,096,222人(2022年2月1日)
市の木
ケヤキ
市の花
ハギ
市の鳥
カッコウ
市の虫
スズムシ
地図

特集

宮城県の出島

磐司磐三郎伝説が残る秋保郷

慈覚大師円仁が磐司磐三郎を改心させて建立した秋保大滝不動堂は戦乱で衰退しますが、江戸時代後期に知足上人により再興されました。

詳しくみる

宮城県仙台市の仙台城址(青葉城址)

伊達政宗が整備した仙台藩

伊達政宗は新田開発のほか運河や港湾整備を行い、14代にわたり伊達家が雄藩として仙台を支配する基盤を整えました。

詳しくみる

歴史

慶長6年(1601年)に伊達政宗が仙台城を築いて岩出山から移りました。伊達政宗は城下町を整備し、新田開発のほか運河や港湾整備を進め、仙台は東北一繁栄する町となりました。江戸時代中期には家臣の屋敷に果樹や生垣を植えることを推奨したことで屋敷林がつくられ、寺社林とともに杜の都の原点になりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

後期旧石器時代に段丘の北前遺跡や富沢遺跡で生活していた人びとは、縄文時代に丘陵部や平野部の三神峯遺跡などで集落を営むようになりました。稲作が定着した弥生時代には南小泉遺跡などに集落を営むようになりました。

古墳時代、飛鳥時代

戸ノ内遺跡に方形周溝墓が造営され、遠見塚古墳、兜塚古墳、裏町古墳などに大型の前方後円墳が造営されました。飛鳥時代に陸奥国が置かれると、太白区郡山に官衙が造営されました。

宮城県仙台市の遠見塚古墳

遠見塚古墳

広瀬川左岸の自然堤防に立地する4世紀末に造営された前方後円墳で、仙台平野一帯を支配した豪族の墓と考えられています。

宮城県仙台市の仙台郡山官衙遺跡群(郡山官衙遺跡)

仙台郡山官衙遺跡群(郡山官衙遺跡)

仙台市の南部に位置する飛鳥・奈良時代の官衙(役所)と寺院からなる遺跡で、7世紀後半~8世紀前半まで多賀城以前の陸奥国府と考えられています。

宮城県仙台市の仙台郡山官衙遺跡群(郡山廃寺跡)

仙台郡山官衙遺跡群(郡山廃寺跡)

陸奥国で最初の本格的な寺院で、金堂、講堂、僧房、塔などによる伽藍が8世紀後半まで形成されていたと考えられます。

奈良時代、平安時代

天平13年(741年)に聖武天皇の勅願により全国に国分寺が建立され、最北端となる陸奥国分寺が創建しました。貞観11年(869年)の貞観地震で被害を受け、文治5年(1189年)の奥州合戦で陸奥国分寺の近くにある鞭楯(榴岡)に藤原泰衡が陣を構えたことから戦火に見舞われました。

宮城県仙台市の陸奥国分寺跡

陸奥国分寺跡

約240メートル四方の敷地に南から南大門、中門、中門と金堂を結ぶ回廊、金堂、講堂、僧坊などの建物があり、金堂の東側に七重塔がありました。

宮城県仙台市の陸奥国分尼寺跡

陸奥国分尼寺跡

聖武天皇の詔で日本全国に建立された国分尼寺の一つで、天平13年(741年)に創建しました。陸奥国分尼寺跡から多数の布目瓦が出土しています。

鎌倉時代、南北朝時代

文治5年(1189年)に源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし、陸奥留守職に伊沢家景(のちの留守氏)をはじめ、牡鹿郡の葛西氏、宮城郡の国分氏、名取郡の結城氏などが配置されました。南北朝時代に畠山国氏・吉良貞家が奥州管領になると、東北地方最大の激戦といわれる岩切城合戦により留守氏が没落しました。

室町時代、安土桃山時代

応永7年(1400年)に斯波大崎詮持が奥州探題となりますが、次第に大崎氏の領内は乱れていきました。大永2年(1522年)に伊達稙宗が陸奥国守護職となり、天文5年(1536年)に塵芥集を制定しますが、天文11年(1542年)には伊達稙宗と晴宗父子が争う天文の乱が起きました。天正16年(1588年)に伊達政宗が大崎氏と争い勢力を拡大しましたが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置で所領が減らされました。

岩崎一揆

陸奥国和賀郡を治めていた和賀忠親は、小田原討伐に参陣せずに豊臣秀吉から改易され伊達政宗を頼りました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに呼応して南部利直が支配する花巻城に攻め込んで旧領を回復を目指しましたが、北信愛と南部利直の反撃を受けて敗退しました。岩崎一揆の報を受けた徳川家康は和賀忠親に出頭を命じますが、護送の途中の国分尼寺で近臣とともに自害しました。

宮城県仙台市の岩切城跡

岩切城跡

留守氏の居城で観応の擾乱で奥州管領吉良貞家が攻略した記録が残り、永禄13年(1570年)に留守氏が利府城に移り廃城になりました。

宮城県仙台市の和賀忠親墓

和賀忠親墓

豊臣秀吉から改易されたのち所領を回復するため岩崎一揆を起こしましたが、南部氏に敗れて江戸に護送される途中に国分尼寺で自害しました。

江戸時代

初代仙台藩主となる伊達政宗は、慶長6年(1601年)に仙台城を築いて岩出山から移りました。伊達政宗は城下町を整備し、新田開発のほか運河や港湾整備を進め、仙台は東北一繁栄する町となりました。貞享元年(1684年)には家臣の屋敷に果樹や生垣を植えることを推奨したことで屋敷林がつくられ、寺社林とともに杜の都の原点になりました。元禄2年(1689年)には松尾芭蕉が奥のほそ道の旅で訪れました。

宮城県仙台市の仙台城本丸跡

仙台城跡

伊達政宗は四方に広瀬川の渓谷や断崖に囲まれる天然の要害である青葉山を縄張りして仙台城を築き、地名を千代から仙台に改めました。

宮城県仙台市の林子平墓

林子平墓

三国通覧図説や海国兵談を著して海防が急務であることを力説しましたが、鎖国政策を守る幕府により幽閉されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で仙台藩が仙台県となり、翌年に宮城県と改称されました。明治10年(1877年)の西南戦争で官軍に投降した薩軍の兵士は、国事犯として全国の監獄署に護送されて宮城県監獄署には305人が収容されました。

宮城県仙台市の鹿児島県人墓

鹿児島県人墓

西南戦争の薩軍兵士は宮城県内の開墾作業や築港工事に従事して宮城県の開発に貢献しましたが、監獄で13名が病没して7名が仙台に葬られました。