歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

伊達政宗が整備した仙台藩

宮城県仙台市の仙台城址(青葉城址)

南奥羽を支配した伊達政宗は、仙台城を居城として仙台藩を立藩しました。伊達政宗は新田開発のほか運河や港湾整備を行い、14代にわたり伊達家が仙台を支配する基盤を整えました。度重なる飢饉や幕命の蝦夷地警備や普請工事などで厳しい藩財政でしたが、明治維新を迎えるまで雄藩であり続けました。

仙台藩初代藩主・伊達政宗

伊達政宗は、伊達輝宗と最上義光の妹・義姫との間に生まれました。義姫は夢枕に白髪の僧侶が胎内に入り政宗を懐妊したと言われ、政宗自身も幼少時に疱瘡(天然痘)を患い右目を失明していることから、隻眼の行者・満海上人の生まれ変わりとの逸話が残ります。伊達政宗は政治・軍事面で活躍して南奥羽を支配し、初代仙台藩主となりました。

仙台城と城下町の整備

岩出山城を居城としていた伊達政宗は、統治を強固にするために居城を領地の中央部に移すことにしました。伊達政宗は国分氏の千代城の跡地である青葉山を縄張りして城郭を築き、地名を千代から仙台に改めました。仙台は奥州街道があり、現在の福島県太平洋側を通る浜街道の合流地点に位置します。さらに出羽街道、作並街道に繋がる交通の要衝であり、柳瀬川や広瀬川の舟運が活用できる場所でもありました。

仙台城ジオラマ

仙台城

仙台城は四方に広瀬川の渓谷や断崖に囲まれる天然の要害であり、本丸は青葉山に置かれたことから青葉城の愛称で親しまれています。

宮城県仙台市の仙台城本丸北壁石垣

本丸北壁石垣

本丸の北壁にある石垣は、高さ17メートル、勾配70度の高石垣です。石垣は切込み接ぎの布積みで、同じ大きさの石が整然と並んでいます。

宮城県仙台市の仙台城本丸跡

仙台城本丸跡

当時としては珍しく天守閣はありませんが、本丸は2万坪の敷地があり大阪城よりも大きな城でした。

宮城県仙台市の仙台城本丸大広間跡

本丸大広間跡

大広間には14の部屋があり藩主が利用する上段の間や天皇や将軍が使用する上々段の間などが用意されていました。

神社仏閣の修復

伊達政宗は戦乱で荒れ果てた神社仏閣の復興や修復を行いました。

宮城県仙台市の大崎八幡宮

大崎八幡宮

伊達政宗が慶長12年(1607年)に創建した八幡宮で、権現造の社殿は漆塗、彫刻、金具に飾られた絢爛豪華な桃山建築の傑作です。

宮城県仙台市の陸奥国分寺薬師堂

木の下及び薬師堂

慶長12年(1607年)に伊達政宗が駿河宗次郎を棟梁として国分盛重が建てた小規模な薬師堂を再建しました。幕末には俳人松尾芭蕉も訪れました。

宮城県仙台市の陸奥国分寺仁王門

陸奥国分寺仁王門

慶長12年(1607年)に伊達政宗が造営しました。仁王門に安置される密迹金剛像と那羅延金剛像の2体の金剛力士像は平安末期の作品です。

宮城県仙台市の陸奥国分寺鐘撞堂(鐘楼)

陸奥国分寺鐘撞堂(鐘楼)

伊達政宗が寛永6年(1629年)に造営しました。鐘撞堂と同じ年に鋳造させた梵鐘が納められていましたが、第二次世界大戦で供出されました。

瑞鳳殿の造営

寛永13年(1636年)に経ヶ峯を訪れた伊達政宗は、奥山大学常良にここを墓所にするよう指示して杖を刺しました。しばらくして伊達政宗が江戸で逝去すると、2代藩主・伊達忠宗は奥山大学常良に命じて瑞鳳殿の建立を始め、寛永14年(1637年)に瑞鳳殿が創建しました。

宮城県仙台市の満海上人供養塔

満海上人供養塔

伊達政宗が生前指示した場所から錫杖や数珠、袈裟などが納められた石室が見つかり、土地の古老から満海上人の墓だと伝えられました。

宮城県仙台市の涅槃門

涅槃門

墓所がある経ヶ峯は満海上人が大般若経を埋めた霊場で、涅槃門を境として煩悩を取り除いた悟りの境地に至る伊達政宗が眠る聖域を意味します。

宮城県仙台市の瑞鳳殿拝殿

瑞鳳殿拝殿

拝礼のために整えられた施設で橋廊下、唐門を通して瑞鳳殿内に安置された政宗の木像に拝礼することができたとされます。

宮城県仙台市の瑞鳳殿

瑞鳳殿

極楽を現す瑞鳥や鳳凰が施された桃山様式の絢爛豪華な霊廟です。創建時に崩落の危険があり、伊達政宗が示した場所から少しずらされています。

伊達政宗以降の仙台藩

伊達政宗の跡を継いだ伊達忠宗は、藩政の重役人事を改めて仙台城二の丸を建設し、寛永17年(1640年)には藩内全域の検地を行いました。後継者は文武に優れた次男の伊達光宗が目されていましたが、若くして病で逝去して伊達綱宗が跡を継ぎました。

伊達綱宗の悪政

3代藩主伊達綱宗は酒食に溺れ藩政を顧みず、伊達政宗の十男・伊達宗勝の干渉や家臣団の対立を招きました。2代藩主伊達忠宗の三男・田村宗良をはじめとする一門衆や親族大名橘忠茂らは幕府に伊達綱宗の隠居を願い出て、万治3年(1660年)に幕命で隠居させられました。

伊達騒動

伊達綱宗の跡を継いだ亀千代はわずか2歳で、伊達宗勝と田村宗良が後見人を務めました。伊達宗勝は原田甲斐を家老に据えて藩政を牛耳るようになり、宗勝派は2度にわたり亀千代を暗殺しようとして仙台藩は分裂して対立が表面化していきました。亀千代派の伊達宗重は、伊達宗勝と原田甲斐の専横を幕府に訴え出て、幕府は江戸で審問を行うことを決定しました。審問は老中酒井忠清邸などで行われましたが、その控えの間で原田甲斐が伊達宗重を斬りつける刃傷沙汰を起こしました。

伊達綱村の家督相続

亀千代が元服して伊達綱村が4代藩主となると、伊達騒動を鑑みて秩序を再編成して藩内に記録所を設置して藩政や家臣の由緒などを記録しました。これを基に伊達家の正史とされる伊達治家記録や伊達正統世次考などがまとめられていきました。貞享2年(1685年)には榴ヶ岡に釈迦堂を建ててシダレザクラを植樹しましたが、藩政は圧迫して隠居に追い込まれました。

宮城県仙台市の感仙殿

感仙殿

二代藩主忠宗の霊廟である感仙殿は寛文4年(1664年)に4代藩主伊達綱村の時代に創建されました。

宮城県仙台市の善応殿

善応殿

三代藩主綱宗の霊廟である善応殿は享保元年(1716年)に6代藩主・伊達吉村の時代に創建されました。

宮城県仙台市のつゝじが岡及び天神の御社

つゝじが岡及び天神の御社

つゝじが岡の天神の御社とは、古くから歌枕で詠まれた榴岡天満宮を指し、松尾芭蕉が訪れて奥の細道で触れています。

仙台藩の中興

伊達綱村の嫡子は早世していたため、宮床伊達家から養子として迎えられた伊達吉村が6代藩主となりました。伊達吉村は藩財政の建て直しを図るため、綱紀粛正や質素倹約を求める家中法度や百姓条目を定めました。享保17年(1732年)の享保の大飢饉で米の価格が高騰すると、藩内から江戸に送る米の量を増やして財を成して仙台藩中興の英主と呼ばれました。

度重なる災害

伊達吉村の跡を継いだ伊達宗村以降は、城下の大火や水害が相次いで財政が逼迫しました。宝暦5年(1755年)の宝暦の飢饉が起こり、天明3年(1783年)の天明の飢饉では、藩の経済政策に深く関わる阿部清右衛門の屋敷を群衆が襲撃する阿部清騒動が起きました。

宮城県仙台市の准胝観音堂

准胝観音堂

5代藩主伊達吉村夫人・長松院が准胝観音を寄進したことを受け、延享2年(1745年)に6代藩主伊達宗村が造営しました。

宮城県仙台市の妙雲界廟

妙雲界廟

4代藩主伊達綱村以降の墓所は廟建築を廃したため、9代藩主周宗と11代藩主斉義と芝姫夫妻の廟は墓碑のみ残されています。

奥羽越列藩同盟

13代藩主伊達慶邦は、安政2年(1855年)に幕府から蝦夷地の警備を命じられ、翌年には洋式軍艦の開成丸の建造に着手しました。ペリーの黒船来航により藩論が開国派と攘夷派に割れる事態となり、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が起こると朝廷の命令と会津藩の依頼の板挟みとなりました。仙台藩は事実上の盟主として奥羽越列藩同盟を締結しましたが、新政府軍に敗れて伊達慶邦は謹慎しました。