歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

米沢市

米沢市の上杉神社(米沢城址)

米沢市は山形県最南部に位置し、奥羽山脈、吾妻連峰、飯豊連邦に囲まれる盆地です。盆地特有の夏は暑く冬は寒さが厳しい環境で、特別豪雪地帯に指定されています。奥州三高湯のひとつと言われた白布温泉をはじめ多くの温泉群があり、自然の恵みが豊かな町です。

概要

面積
548.51km2
人口
80,181人(2022年2月1日)
市の木
コメツガ
市の花
アズマシャクナゲ
地図

歴史

米沢市は会津街道が通じる交通の要衝で、戦略的にも重要な場所でした。鎌倉時代に永井氏が地頭となり、室町時代に伊達氏が侵略して統治しました。豊臣秀吉の命で蒲生氏が入りましたが、関ケ原の戦いを経て上杉氏が入り米沢城の城下町を整備しています。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

米沢からは数多くの縄文遺跡が確認されています。天王川及び羽黒川の流域には八幡原遺跡群、杢台遺跡、法将寺遺跡群などが造営され、縄文時代早期後半から弥生時代を経て平安時代にわたり集落を形成していくようになります。

山形県米沢市街

米沢市

最上川が市街地を貫流して米沢盆地を形成しています。河岸段丘には縄文時代前期の一ノ坂遺跡が残されています。

山形県米沢市の一ノ坂遺跡

一ノ坂遺跡

長さ43メートルの日本で最も長いな竪穴式住居跡のほか、10棟が軒を接して並ぶ竪穴住居跡が発見されて連房型竪穴住居跡と名付けられました。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代には成島古墳や戸塚山古墳群などの古墳が多く造営されました。戸塚山古墳群は関東以北で最大規模の古墳群で、古代女性の遺骨が発見されたことから置賜の卑弥呼と呼ばれています。

奈良時代、平安時代

大化元年(645年)の大化の改新により律令制度が進められ、全国各地に国や郡が置かれました。和銅5年(712年)に出羽郡が出羽国に昇格して米沢の一帯は出羽国置賜郡に属しました。やがて律令制度が衰退すると在地豪族が力を台頭し、米沢は奥州藤原氏が支配するようになりました。

山形県米沢市の古志田東遺跡

古志田東遺跡

律令制解体期にあたる9世紀から10世紀初頭の豪族屋敷跡で、河川跡には船着場と考えられる窪地と木橋の跡と約60点の木簡や墨書土器が発見されています。

鎌倉時代、南北朝時代

文治五年(1189年)に源頼朝が奥州藤原泰衡を討伐し、その戦功により大江氏が長井荘の地頭となりました。大江広元の跡を継いだ大江時廣は、嘉禎4年/暦仁元年(1238年)に長井荘に米沢城を築いて永井氏を名乗るようになりました。

室町時代、安土桃山時代

康暦2年(1380年)に伊達郡領主伊達宗遠が長井荘の永井廣房を攻め滅ぼしました。伊達宗遠は高畠城を本拠として置賜の統治をはじめ、天文17年(1548年)に15代伊達晴宗が米沢城を本拠としました。永禄10年(1567年)に米沢城に生まれた伊達政宗は、父伊達輝宗が畠山氏に謀殺されと直ちにその仇を討ち、周囲を攻めて広大な領地を占めました。伊達政宗は天正19年(1591年)の葛西大崎一揆の不手際により、豊臣秀吉の命で岩出山に移封しました。

上杉氏の移封

天正19年(1591年)に蒲生氏郷が奥羽鎮護となり、米沢城に重臣の蒲生郷安に配しました。蒲生氏郷が死去して蒲生秀行が跡を継ぐと、慶長3年(1598年)に蒲生氏は宇都宮に移封をとなり、上杉景勝が奥羽会津領主となりました。米沢城には直江兼続が入り、直江兼続の手により米沢城下町の整備が進められました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで上杉景勝は西軍に味方したため、翌年に会津から直江兼続の知行地である米沢に移封されました。

山形県米沢市の舘山城跡

舘山城跡

標高300メートルほどの舌状丘陵の先端部に築城された伊達氏の政治・軍事の拠点のひとつで、南側の大樽川、北側の小樽川を堀とした天然の要害です。

山形県米沢市の西條天満神社

西條天満神社

米沢城三の丸の堀の土居跡上に建つ神社で、上杉氏家臣の西条氏が菅原道真を祀りました。

江戸時代

寛文4年(1664年)に3代藩主上杉綱勝が急逝すると、嫡男がいないため改易処分の窮地に立たされました。上杉綱勝の正室の父である会津藩主保科正之は、幕府に折衝して吉良義央の子三郎を上杉家の養子として家名相続を保持しましたが、知行が半分に削られました。藩の財政は窮乏の一途をたどり、さらに凶作や飢饉が重なり百姓の打ち壊し、宝暦10年(1760)には青苧騒動が起こりました。宝暦13年(1763年)には横領した森平右衛門が斬殺される事件が起きています。

上杉治憲(鷹山)

藩財政が窮乏するなか、明和4年(1767年)に上杉治憲(鷹山)が17歳で9代藩主とりました。上杉治憲は倹約令を出し、自ら一汁一菜を実行しました。竹俣当綱と莅戸善政は改革を進めますが、これを不服とした7家の重臣たちは七家騒動を起こし、須田満主・芋川延親ら七家は切腹・閉門・知行召し上げなどの処分となりました。上杉治憲の改革政治は順調な成果を挙げ、安永3年(1774)に備荒制度を始めて備籾倉に籾を貯えたことで天保4年(1833年)の大飢饉の時も、米沢藩では餓死者が出ませんでした。殖産興業政策では漆・桑・楮の増稙や養蚕奨励を始め、安永5年(1776年)には越後国から縮師を雇い入れ、絹織物に転じて生産も急増して米沢織物の素地となりました。

戊辰戦争

慶応3年(1867年)15代将軍徳川慶喜はついに大政奉還をして江戸幕府は終わりました。江戸城が無血開城すると薩長を主とする新政府は東北の鎮撫を手掛け、強い不満を持つ奥羽列藩は同盟を結び対抗するようになり、米沢藩は仙台藩と共に奥羽列藩同盟の中心として新政府軍と戦いました。米沢藩は総督色部長門の戦死により苦戦を強いられ、慶応4年(1868年)ついに降伏しました。仙台藩も降伏し、会津若松城も悲痛な最後を迎えて戊辰戦争は終わりました。

山形県米沢市の直江兼続夫妻の墓

直江兼続夫妻の墓

上杉景勝の重臣直江兼続と妻お船の墓です。直江家の菩提寺は徳昌寺でしたが、後に林泉寺に移されたと伝えられています。

山形県米沢市の武田大膳大夫信清の墓

武田大膳大夫信清の墓

武田信玄の六男で杉景勝の正室菊姫の弟にあたり、武田主家滅亡後に上杉家に仕えました。

山形県米沢市の米沢藩主上杉家墓所

米沢藩主上杉家墓所

上杉家の祖上杉謙信を中心に11代藩主上杉斉定までの廟屋が並びます。時代により入母屋造りから宝形造りに変化しています。

山形県米沢市の上杉治憲敬師郊迎跡

上杉治憲敬師郊迎跡

上杉治憲は寛政8年(1796年)に米沢に下向した細井平洲を羽黒堂(羽黒神社)で郊迎し、普門院で長旅の労をねぎらいました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治2年(1869年)14代上杉茂憲は版籍を奉還し米沢藩庁を置いた。明治4年(1871年)には米沢藩を米沢県と改めたのち置賜県を経て山形県に統合されました。

山形県米沢市の上杉神社

上杉神社

大正8年(1919年)に発生した米沢大火で上杉神社の社殿も焼け落ち、大正12年(1923年)に米沢出身の伊東忠太氏の設計で再建されました。

山形県米沢市の松岬神社

松岬神社

明治9年(1876年)に上杉謙信と上杉鷹山を祭神とした上杉神社が創建しますが、明治35年(1902年)に上杉鷹山は松岬神社に分祀されました。