天童市
天童市は山形県のほぼ中央部に位置し、奥羽山脈を源流とする立谷川や乱川などの扇状地に市街地が形成されています。市域の西部は平地が広がり、東部は険しい山地が連なります。将棋駒の生産が全国生産量の95%を占め、さくらんぼ、桃などの生産も盛んでラフランスは日本一を誇ります。
概要
- 面積
- 113.01km2
- 人口
- 61,612人(2022年2月1日)
- 市の木
- モミジ
- 市の花
- ツツジ
- 市の鳥
- ホオジロ
- キャッチフレーズ
- 湯のまち天童 あなたの旅に、王手
- 地図
歴史
飛鳥・奈良時代に活躍した僧行基が、舞鶴山で2人の童子を感得したことでこの地が天童と名付けられました。南北朝時代に北畠天童丸が入り、のちに斯波氏一族の里見氏が入り天童氏を名乗るようになりました。最上氏が台頭して江戸時代を迎えますが、やがて織田信長の末裔が天童藩を立藩して明治時代を迎えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
天童市は、旧石器時代から人が現れるようになり、田麦野、上荒谷など山沿いの台地や水辺に集落が造られていきました。弥生時代に水田稲作が伝えられると村山盆地の扇状地などに水田が造営されていきました。
古墳時代、飛鳥時代
天童市街
水田を営んでいた集落はやがて統合されて小さな国となり、清池には首長を葬る上遠矢塚古墳などが造営されました。
西沼田遺跡
6世紀の農村集落で平地式住居14棟、高床倉庫2棟が確認され、河川跡や水田に伴う畦畔や溝、井堰などの遺構が残されています。
奈良時代、平安時代
飛鳥・奈良時代の僧行基は、舞鶴山山頂で念仏を唱えたところ、天から護衛童子と摩竭童子が行基の前に舞い降りて一宇を建立して一切衆生を念仏すべしと伝えました。行基はこの霊峰を天童山と名付け、この地域は天童と呼ばれるようになりました。平安時代には藤原摂関家により広大な成生荘が統治されました。
鎌倉時代、南北朝時代
南北朝時代の出羽は、寒河江大江氏を始めとする南朝勢力が優勢な地域で、北畠顕家の末子である北畠天童丸は天童山に居館を構え、南朝方の拠点としました。正平6年(1351年)に北畠顕家の弟北畠顕延は、天童荒谷で北朝方の陸奥探題吉良貞家、貞経父子を破りましたが、奥州管領斯波家兼はこれを抑えるため、延文元年(1356年)にのちに最上姓を称する次男斯波兼頼を山形に入部させました。
室町時代、安土桃山時代
正平22年(1367年)に鎌倉公方足利基氏や2代将軍足利義詮が亡くなると、新田義貞の子新田義宗と脇屋義治が挙兵し、これに呼応して寒河江大江氏などの出羽諸氏も挙兵しました。奥州管領大崎直持や羽州管領斯波兼頼らは寒河江大江氏を漆川の戦いで破り北畠天童丸も天童から離れました。天童は天授元年(1375年)に斯波大崎氏一門の里見頼直が本拠として天童氏を称するようになりました。
天童市の滅亡
山形城を本拠とする最上義光は、天正5年(1577年)に天童城を攻めて天童頼貞はこれを撃退しましたが、天正12年(1584年)に再び攻めると延沢信景などの離反により天童城は落城して天童頼久は逃げ延び、天童は最上氏の支配下となりました。
天童城跡
天童城の本丸が置かれていました。天正12年(1584年)に最上義光に攻められて落城し、天童城は廃城となりました。
江戸時代
尊王攘夷思想家の山県大弐らが捕らえられた明和事件に連座していたとして、織田信浮が高畠六村と天童などを藩領とする出羽高畠藩に減封されました。天明2年(1782年)から天明の大飢饉が起こり藩財政が悪化しました。3代藩主織田信美は、天保元年(1830年)に居館を高畠陣屋から天童陣屋に移して天童藩を立藩しました。
家老・吉田大八
天童藩は財政難に悩まされ、厳しい倹約令を敷きました。安政2年(1855年)にはベニバナの専売制を行おうとして失敗しますが、吉田大八は将棋が兵法戦術にも通じるとして棋駒の製作を奨励しました。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で藩主織田信学が奥羽鎮撫使先導に任ぜられて吉田大八が和平工作を行いましたが、庄内藩が天童藩に攻め込み天童城下は焼き払われて吉田大八は米沢藩に自ら捕らえられ切腹して果てました。
吉田大八
天童藩の家老を務め棋駒の製作を奨励しました。戊辰戦争では和平工作を行いましたが、米沢藩に自ら捕らえられ切腹して果てました。
将棋駒
吉田大八は将棋が兵法戦術にも通じるとして棋駒の製作を奨励して将棋の街天童の基礎を築きました。財政難で将棋駒の製作が奨励されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
昭和33年(1958年)に天童市が成立しました。
格知学舎
明治2年(1869年)に浄土真宗の学僧本澤竹雲が私塾を開設して、明治3年(1870年)に格知学舎が落成しました。
仲野半四郎氏庭園
明治20~30年には、豪農仲野半四郎が舞鶴山を借景とする庭園を作庭しました。
天童温泉郷
明治44年(1911年)に灌漑用水用の井戸を掘るために水田を掘削したときに温泉が湧き出ました。その翌年には浴場や宿屋が建ち天童温泉郷を形成していきました。
人間将棋
昭和31年(1956年)に始められた将棋野試合は人間将棋と呼ばれるようになり、昭和63年(1987年)に造営された舞鶴山の将棋の森で開催されるようになりました。