尾花沢市
尾花沢市は山形県の最北部に位置します。奥羽山脈や出羽丘陵などに囲まれる盆地に市街地が形成されます。市域の6割が段丘に占められ、日本三雪と呼ばれる三大豪雪帯に数えられています。夏スイカの生産量は日本一を誇り、尾花沢牛など特産品が多いです。
概要
- 面積
- 372.53km2
- 人口
- 14,400人(2022年2月1日)
- 市の木
- ケヤキ
- 市の花
- ツツジ
- 地図
歴史
室町時代に発見された延沢銀山は、島根の石見、兵庫の生野とともに日本三大銀山に数えられ、この地を治めていた最上氏や幕府の財政を支えていました。やがて銀山が閉山となると、温泉宿が建造されて銀山温泉となりました。大正時代の洪水で再建された温泉街は、テレビドラマおしんの舞台となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
最上川やその支流が形成した河岸段丘や緩やかな丘陵には、縄文時代早期の森岡北遺跡、中期の巾遺跡や原の内遺跡、晩期の漆坊遺跡などの多くの縄文遺跡があります。やがて稲作が伝わり人びとが水田を築いて生活するようになります。
古墳時代、飛鳥時代
縄文時代から最上川の流域に人が住み続け、古墳時代の遺跡も最上川流域に営まれています。
奈良時代、平安時代
大和王権は北方の蝦夷を平定するため、神亀元年(724年)に大野東人が多賀城を造営して陸奥国の政治の中心とし、庄内に置かれていた出羽柵を秋田に移しました。大野東人は多賀城から秋田城までの道を整備するため、玉野原に入り尾花沢の開拓を進めました。
鎌倉時代、南北朝時代
承久3年(1221)に順徳上皇は後鳥羽上皇とともに執権北条義時追討の院宣を出して鎌倉幕府と戦いますが、これに敗れて佐渡島に配流となりました。伝承によると、家臣阿部頼時は順徳上皇を救けて佐渡島から酒田港を経て、最上川を遡り大石田に上陸して舟形山に潜伏しました。麓に御所を設けて再起を図りましたが寛元4年(1246)に上皇は崩御して御所山の天子塚に葬られたと言われています。
室町時代、安土桃山時代
天文19年(1550年)に延沢薩摩守満重が延沢城を築城しました。延沢氏は銀山経営による豊富な資金で天童氏の天童八楯の旗頭として最上氏と敵対しました。武勇に優れた延沢満延を調略するために最上義光は娘の松尾姫を延沢満延の嫡男又五郎と婚姻させて延沢氏を従属させました。
儀賀市郎左衛門
康正2年(1456年)に銀鉱脈を発見して但馬国生野銀山の山師作兵衛に石の鑑定を依頼しました。石には銀が含有してることが判明して採掘が始まりました。
延沢銀山山神神社
創建年代は不明ですが延沢銀山の総鎮守として位置づけられており、延沢銀山遺跡の構成史跡となりました。
江戸時代
元和8年(1622年)に最上家が御家騒動で改易となり、延沢光昌も肥後藩加藤家の預りの身となりました。尾花沢市は城下町の側面が消えて宿場町を主体とした経済都市に変化しました。寛永13年(1636年)に尾花沢代官所が移転すると、紅花などを取り扱う事でさらに商業活動の盛んな町となりました。
が、
延沢銀山遺跡銀鉱洞
延沢銀山は寛永年間に最盛期を迎え、島根の石見、兵庫の生野とともに日本三大銀山に数えられました。硬い岩盤を砕いて坑道が掘られました。
延沢銀山遺跡疎水口
延沢銀山は次第に地下水の湧出が顕著となりました。湧出した地下水を排水する施設を設けましたが、銀の産量は減少していきました。
白銀滝
延沢銀山は元禄2年(1689年)に大崩落が起きて廃山となりました。延沢銀山の麓には豊富な水が滝を形成しています。
銀山温泉郷
延沢銀山が廃山すると銀山の麓に温泉宿が建てられるようになりました。銀山温泉は奥州街道から幅狭い悪路を通る必要がありましたが、仙境の湯治場として脚光を浴びるようになりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
大正10年(1921年)に高宮常太郎により灌漑湖である徳良湖が造営されて荒れ地で水源の乏しい土地に水を確保しました。この徳良湖を造営するときに湖底を固めるどんづきの掛け声から花笠踊りが生まれました。
銀山温泉郷
大正2年(1913年)の銀山川の大洪水で茅葺屋根の旅館は流されました。木造多層旅館に建替えられた温泉街の景観はNHK連続テレビ小説おしんの舞台となりました。
能登屋旅館本館
大正14年(1925年)頃の建物で千と千尋の神隠しのモデルになりました。漆喰をコテ一つで装飾した鏝絵があしらわれています。