北村山郡
大石田町のみで構成される北村山郡は、山形県のほぼ中央部に位置します。日本三大急流のひとつ最上川が中央を北流し、東部は丹生川、野尻川等の支流により尾花沢盆地を形成します。主な産業は農業で、水稲やスイカのほか玄そばの産地として知られます。
概要
- 面積
- 79.54km2
- 人口
- 6,303人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 大石田町
- 地図
歴史
北村山郡は、最上川の水の恵みにより発展したと言えます。古く旧石器時代から人の営みが数多く残され、平安時代から江戸時代に至るまで大石田町は小舟を利用した交易の拠点として大いに繁栄しました。明治時代に鉄道が敷設されると、利便性から水運は衰退しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
北村山郡を北上する最上川の流域には、旧石器時代から縄文時代の多くの遺跡が残されています。全国的に見ても有数の遺跡地帯で縄文時代の銀座通りと呼ばれるほどです。笹山遺跡は大石田町最古の旧石器時代の遺跡として、磯山型石刃と呼ばれる石器が出土しています。
角二山石器時代住居跡群
縄文時代前期の竪穴住居跡が6棟見つかり、1万1千年前に噴火した肘折火山の噴火物の直下から細石刃文化の石器が6千点以上出土しました。
古墳時代、飛鳥時代
特に記録は見つけられませんでした。
奈良時代、平安時代
延長5年(927年)に河川水運の交通拠点となる水駅が最上川に置かれました。陸路と水路の接点にあたる大石田には野後駅が置かれました。野後駅と推定される場所からは平安時代の須恵器や土師器が確認されています。
鎌倉時代、南北朝時代
後鳥羽上皇の皇子順徳上皇は、皇位を中恭天皇に譲位して承久3年(1221年)に鎌倉幕府を討伐するために挙兵して承久の乱を起こしました。朝廷軍は幕府軍に敗れて順徳上皇は流刑地の佐渡で崩御しましたが、伝承では佐渡から逃げて酒田港にたどり着き、最上川を遡り大和田にたどり着いたとされています。
室町時代、安土桃山時代
永和3年(1377)には大徹宗令禅師が黒滝に向川寺を開山しました。大石田と上郷までの航路には碁点・三ケ瀬・隼の3つの難所があり、わずか2年で44隻が難破したことから天正9年(1581年)に最上義光が他国から石工を雇い開削し、慶長11年(1606年)には斎藤伊予守が同様の開削を行いました。こうして大石田は交易の拠点として繁栄していきます。
江戸時代
元和8年(1622年)の最上氏がお家騒動で改易になると新庄藩の所領となりましたが、山形藩に強引に領地交換させられました。江戸や大阪に運ばれる上納米の輸送路として最上川舟運が発展していき、西回り航路が開発されると、上方で仕入れた物資が酒田港から大石田河岸まで川舟で運ばれ、奥羽山脈を経由して仙台藩まで運ばれました。寛政4年(1792年)には幕府の舟役所が置かれ、元禄年間には川舟約300艘が置かれました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治5年(1872)に川船役所が廃止されて最上川舟運は自由通船化されました。明治34年(1901年)に鉄道が大石田まで開通して最上川舟運は大きな打撃を受けてから、大正2年(1913年)には最上川大洪水が発生して数多くの船舶が流失し、港湾設備も甚大な被害を受けてほとんど廃業しました。