会津若松城と会津藩

鎌倉時代に下向した蘆名氏は、黒川城を築いて統治をはじめました。蘆名氏は伊達政宗に滅ぼされ、豊臣秀吉の奥州仕置で蒲生氏郷が統治するようになり、黒川城は若松城と呼ばれるようになりました。江戸時代には加藤氏により若松城は難攻不落の城に改修され、松平家の統治下の会津戦争では1か月も籠城して耐え抜きました。
蘆名氏と黒川城の築城
三浦一族の佐原十郎義連は、文治5年(1189年)の奥州合戦の戦功により源頼朝から会津4郡を与えられました。佐原氏は会津に地頭代を配置して自らは本領の三浦半島に在住していましたが、至徳元年(1384年)に蘆名直盛が会津に下向して黒川(現在の湯川)のほとりに東黒川館を造営しました。蘆名盛政は敵対する庶流北田氏や新宮氏を屈服させるため、応永16年(1409年)に北田城、応永27年(1420年)に新宮城を攻め落として会津地方を統一しました。
蘆名氏の滅亡
会津地方統一後も家臣の反乱や家中の争いがありましたが、蘆名盛舜の跡を継いだ蘆名盛氏は支配域を広げて全盛時代を迎えました。蘆名盛氏は嫡男が早逝したため二階堂盛義の子盛隆を養子として跡を継がせましたが、盛隆が家臣に暗殺されたことで急速に勢威を失いました。蘆名家は常陸国の佐竹義重の二男義広が当主として迎えましたが家中の結束は大いに乱れ、動揺に乗じた伊達政宗は猪苗代盛国の内応を得て会津領に攻め込み、天正17年(1589年)の摺上原の戦いで蘆名家は滅亡しました。

会津若松市
会津盆地が広がる交通の要衝で、蘆名家の統治のもとで奥州最大の都市として発展を遂げました。
蒲生氏と上杉氏の統治
天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原討伐で北条氏を滅ぼすと、会津城下の興徳寺で行われた奥州仕置で会津は蒲生氏郷に与えられ、伊達政宗は仙台に戻りました。文禄4年(1595年)に蒲生氏郷が肥前名護屋城で亡くなると、家督を継いだ蒲生秀行が宇都宮に転封となり上杉景勝が会津若松城に入りました。上杉景勝は慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの処理で米沢に転封となり、一時的に蒲生秀行が治めたあと加藤嘉明が会津藩初代藩主となりました。

会津若松城
蒲生氏郷は7層の天守閣を建築して城下町を整備しました。黒川の地名は故郷に因んで若松と改められて黒川城は若松城と呼ばれるようになりました。

茶室麟閣
豊臣秀吉が千利休を切腹させると、蒲生氏郷は千利休の茶道を後世まで伝えるため、千利休の子である少庵を会津に連れて来て茶室麟閣で茶道を教えました。

上杉謙信公仮廟所
上杉謙信は居城の春日山城に葬られましたが、上杉景勝の会津移封に伴い若松城内に墓所が移され、慶長6年(1601年)の米沢転封で再移転しています。

神指城跡
上杉景勝は若松城にかわる新城として神指原に築城を始めましたが、徳川家康の会津征伐で工事が中止されて未完成のまま廃城となりました。
加藤嘉明と会津藩の成立
加藤嘉明が初代会津藩主となると、2代藩主加藤明成は慶長16年(1511年)の会津地震で倒壊した天守閣を再建したほか、追手門の方向を変更して北出丸を置いて武者だまりとして西出丸を整備しました。この時に整備した城郭は、のちに会津戦争で真価が発揮されることとなります。
加藤明成のお家騒動
加藤明成は会津若松城の整備のほか城下町を整備しましたが、藩政は失敗して筆頭家老の堀主水と対立し、堀主水が出奔するお家騒動となりました。これを切欠として加藤成明の子・加藤明友が石見国吉永に転封となり、これ以降保科家が治めて3代目から松平に改称して幕末を迎えることになります。

追手門
北出丸は追手門の前に枡形虎口が設けられ、門の上から一斉攻撃できる構造からみなごろし丸と呼ばれました。

武者走り
V字型の武者走りは全国的に見ても珍しく若松城の特色の一つでもあります。昇降するための階段が張り出さないように、石垣に並行して取り付けられています。

表門(鉄門)
北出丸や西出丸と本丸の間には帯廓が置かれ、本丸に通じる表門は鉄門で硬く閉ざされていました。

高石垣と廊下門
本丸東側には扇の勾配がある高さ19メートルある高石垣が設けられました。
保科正之と会津藩
保科家は旧武田家臣から徳川家に仕えた家柄でしたが、2代将軍徳川秀忠の実子で3代将軍徳川家光の弟である正之が養子に入りしたため徳川一門と見なされていました。保科正之は前藩主の城郭改修などで疲弊していた領民のため、常平倉や社倉を創設して飢饉のための備蓄を行うなどの名君で、3代将軍徳川家光から厚く信頼されて武断政治から文治政治への転換に大きな影響を与えました。
御薬園の開設
保科正之は戦乱で放置されていた蘆名盛氏の庭園の整備を始め、寛文10年(1670年)に2代藩主保科正経が疫病から領民を救い病気の予防や治療などに使用する薬草の研究のために薬草園を設けました。薬草園は3代藩主松平正容から次第に拡充され、領民から御薬園と呼ばれるようになりました。

御薬園(会津松平氏庭園)
松平正容は元禄9年(1696年)に小堀遠州の流れを汲む園匠目黒浄定と普請奉行辰野源左衛門に命じて、東山連峰を借景とした池泉回遊式の大名庭に大補修を加えました。

薬草園
庭園に整備された薬草園で、朝鮮人参を試植して広く民間に奨励したことから、領民から御薬園と呼ばれるようになりました。

楽寿亭
庭園中央の中島には松平正容が楽寿亭と呼んだ茶室があり、茶席や納涼、時には密議などが行われました。
会津松平家の藩政改革
貨幣経済の浸透で物価が高騰すると各藩は悉く財政難に陥り、重い年貢負担を掛けられた農民は大一揆を起こしました。5代藩主松平容頌は、天明5年(1785年)に田中玄宰による藩政改革を行い、荒廃した農村の復興や蝋や漆の専売化など特産品の生産拡大に尽力しました。

会津藩主松平家墓所
院内御廟とも呼ばれる会津松平家の墓所で、二代藩主保科正経から幕末の九代藩主松平容保までが葬られています。

會津日新館
5代藩主松平容頌と家老田中玄宰は、享和3年(1803年)に藩校・日新館を創設して文武の奨励も図りました。
会津戦争
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が始まり会津戦争に発展すると、会津若松城はその舞台となりました。薩長両藩を中心とする新政府軍に攻められて会津の町は壮絶な戦場となり、白虎隊などの悲劇が起きました。会津若松城は1ヶ月の籠城戦に耐えましたが、大手門にあたる北出丸で白旗をあげて降伏しました。

会津若松城模型
新政府軍の砲撃を受けながらも1か月にわたり籠城しましたが、城内に避難した庶民までもが亡くなる惨状となり降伏して城を明け渡しました。

御茶屋御殿
元禄9年(1696年)に建造された御茶屋御殿は、会津戦争で療養所として使用され、会津藩が降伏すると松平容保の住居として使用されました。
会津若松城の廃城
明治7年(1874年)に会津若松城は廃城になると、明治23年(1890年)に旧会津藩士の遠藤敬止が城跡を旧松平家に献納して、大正15年(1926年)に旧松平家が若松市に寄贈しました。

阿弥陀寺御三階
戊辰戦争でも残された会津若松城の御三階は、阿弥陀寺の再建に利用されました。

会津若松城
昭和40年(1965年)には天守閣が復元され、現在は保科家統治時代の赤瓦に変更されています。