会津若松市

会津若松市は福島県西部の会津盆地の東南に位置し、磐梯山や猪苗代湖など自然に囲まれています。崇神天皇の頃に北陸方面に遣わされた大彦命と東山道方面の建沼河別命が出会う場所であることから相津と呼ばれ、これが転じて会津となりました。
概要
- 面積
- 382.97km2
- 人口
- 115,571人(2022年2月1日)
- 市の木
- アカマツ
- 市の花
- タチアオイ
- 市の鳥
- カッコウ
- 地図
特集
歴史
源頼朝から所領を与えられた三浦一族が蘆名氏を名乗り統治するようになり、庶流を制圧しつつ支配域を広げていきました。やがて伊達政宗の台頭により滅亡すると、時勢により領主を代えて統治が進められました。江戸時代に長らく松平氏が統治しますが、幕末の戊辰戦争では新政府軍に攻められて壮絶な戦場となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
会津若松市は笹山原遺跡など旧石器時代から人の営みが残されており、縄文時代中期の本能原遺跡からは住居跡や貯蔵穴が環状にめぐるように発見されました。稲作が始まる弥生時代の一ノ堰B遺跡からは100基以上の墓とともに、壷の破片が出土しました。
古墳時代、飛鳥時代
全長65メートルの飯盛山古墳など古墳時代前期に造営された前方後円墳が点在しています。田村山古墳からは銅鏡・管玉・直刀などが出土し、和泉遺跡からは11軒の家の跡が見つかりました。4世紀には亀ヶ森古墳、鎮守森古墳や大塚山古墳が造営されました。

大塚山古墳
4世紀に造営された前方後円墳で、畿内で鋳造されたものと同一と推定されている三角縁神獣鏡が出土しています。
奈良時代、平安時代
会津盆地の中央にある上吉田遺跡では、川の跡から墨書土器が出土しています。

大戸窯跡群
8世紀から14世紀に使用された300基以上の窯が見つかりました。焼かれた須恵器は各地に送られ、国府や集落で使用されました。
鎌倉時代、南北朝時代
平安時代末期に会津を統治していた恵日寺は、平家に属しましたが木曽義仲に敗れました。鎌倉時代を開いた源頼朝は奥州遠征の戦功で会津を三浦一族の佐原十郎義連に与え、佐原十郎義連から3代目から蘆名氏を名乗り会津に下向しました。
室町時代、安土桃山時代
至徳元年(1384年)に蘆名直盛が黒川城(若松城)を築城して統治を始めました。蘆名家は庶流の北田家や新宮家を滅ぼして会津を統一し、蘆名盛氏はさらに支配域を広げて最盛期を迎えました。蘆名盛氏が亡くなると嫡男が早逝したことで跡継問題が起こり、常陸国佐竹義重の二男義広を当主として迎えたことで佐竹派と伊達派で家臣団の結束が大いに乱れました。
蘆名氏の滅亡と入れ替わる領主
天正17年(1589年)に伊達政宗は葦名家の家中の乱れに乗じて蘆名氏を滅ぼし、黒川を新たな本拠地としましたが、翌年の豊臣秀吉の奥州仕置により蒲生氏郷が入封することになりました。続いて入部した上杉景勝は神指城の築城を始めましたが完成することなく廃城となりました。

会津若松城
蒲生氏郷は黒川城の改修と城下町の整備を進め、地名を黒川から若松へ改めました。

神指城跡
上杉景勝は若松城にかわる新城として神指原に築城を始めましたが、徳川家康の会津征伐で工事が中止されて未完成のまま廃城となりました。
江戸時代
会津藩初代藩主となる加藤嘉明は、会津若松城を近代城郭へと改修しました。加藤嘉明が没して御家騒動が起こり保科家が会津を治めるようになると、のちに松平家と改姓して会津藩の文化を築いていきました。寛政8年(1796年)に飯盛山正宗寺の住職郁堂が考案して円通三匝堂(さざえ堂)が建立しました。
会津戦争
幕末の戊辰戦争では、会津藩は新政府から朝敵と見なされました。これに不満を持つ仙台藩や米沢藩など東北諸藩は奥羽越列藩同盟を締結して新政府と東北戦争に発展しました。会津戦争と呼ばれる会津の攻防は、幕末最大の激戦となりました。

御薬園(会津松平氏庭園)
保科正之は大名庭園を整備して、領民を守るために薬草を栽培したことから御薬園と呼ばれました。

円通三匝堂(さざえ堂)
内部は不思議な二重構造のらせん階段で、西国三十三観音像を参拝する参拝者がすれ違うことなく通行できる世界的にも珍しい建築様式の建物です。
明治時代、大正時代、昭和時代
会津戦争が終結すると、明治2年(1869年)に家老萱野権兵衛が責任を背負い切腹しました。明治6年(1873年)に若松県庁が旧会津藩の会所跡地に設置され、明治32年(1899年)に郡山から若松にいたる岩越鉄道が開通しました。