歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

幕末最大の激戦・会津戦争

福島県会津若松市の旧滝沢本陣

幕末に薩摩藩や長州藩を主体とする新政府軍は、新撰組を傘下にして京都で尊王攘夷派を排除していた会津藩を朝敵とみなしました。東北諸藩は会津藩を援けるため奥羽越列藩同盟を結成して新政府軍と戦いますが、会津の町は壮絶な戦場となり、白虎隊などの悲劇を生みました。

會津藩校・日新館の創設

江戸幕府が開府して200年以上が経過すると、武士の気が弛んで道徳の退廃が顕著となりました。天明2年(1782年)から天明の大飢饉が続き会津藩内では問題が噴出するようになりました。会津藩家老・田中玄宰は教育の復興を中心とする藩政の改革を進言し、5代藩主松平容頌が享和3年(1803年)に文武の両教科を教授する総合学校として日新館を創設しました。

日新館の教育と什の掟

子供たちは什と呼ばれる教育システムがあり、什長が什の掟に背いた子供を審問して子供らしい制裁を加えました。こうした厳格な主従関係を基盤とした教育は、やがて白虎隊を象徴とする義を尊ぶ藩士を育てることになります。

福島県会津若松市の會津藩校日新館

會津日新館

日新館は会津藩士の子弟のみ入校を許されたエリート教育の場で、上級藩士の子弟は10歳になると日新館に入学しました。

福島県会津若松市の會津藩校日新館_大成殿

大成殿

日新館では儒教を中心に医学や天文学などの学問を教えるとともに剣術や砲術など幅広く教えました。大成殿には儒学の祖である孔子が祀られています。

福島県会津若松市の會津藩校日新館_素読所(小学)の展示

素読所(小学)

15歳まで礼法、書学、武術などを学び成績優秀者は講釈所への入学が認められました。さらに優秀な者は藩の費用で江戸や長崎への遊学が認められました。

福島県会津若松市の會津藩校日新館_水連水馬池

水連水馬池

日本最古と言われる給食で食事作法を学び、日本最古のプールと言われる水連水馬池で鎧兜を身に着けたまま泳ぐ練習なども行いました。

黒船来航と尊王攘夷運動

嘉永6年(1853年)に黒船が来航して長い鎖国が終わり、開国とともに文明開化の新しい波が押し寄せると、国内では尊王攘夷運動が盛んになりました。会津藩主松平容保は京都守護職に任ぜられて京都の警備に携わり、新撰組を活動させて尊王攘夷派を取り締まり、尊皇攘夷派の長州藩を京から追い出しました。慶応3年(1867年)に15代将軍徳川慶喜が大政奉還して政治的権限が朝廷に返還されますが、幕府は政権を譲渡しない姿勢を示したため、慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦いが起こりました。

朝敵とされる会津藩

鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、江戸城を無血開城して謹慎すると、松平容保は藩主を辞して養子の喜徳に家督を継承しました。薩摩藩や長州藩を主とする新政府軍は、京都での積年の恨みを晴らすべく会津藩を朝敵とみなし、会津藩討伐の勅令を発布しました。仙台藩や米沢藩は新政府に対して会津藩への寛大な処分を申し入れましたが、長州藩士世良修蔵は断固として拒否したため、強硬な姿勢に反発した東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して徹底抗戦を主張するようになりました。

松平容保

松平容保

京都守護職として新撰組を活動させて尊王攘夷派の取り締まりを強化しましたが、長州藩から恨みを買うこととなり朝敵と見なされました。

福島県会津若松市の萬松山天寧寺_近藤勇墓

近藤勇と土方歳三の墓

新撰組局長近藤勇は戊辰戦争で敗走して下総国で捕えられて処刑されました。副長土方歳三は函館戦争で戦死して近藤勇の墓の左に葬られました。

会津戦争

慶応4年(1868年)に新政府軍が会津討伐に兵を進めると、会津藩は若年から白虎隊、朱雀隊、青龍隊、玄武隊を結成しました。土方歳三率いる旧幕府軍は母成峠の守りを固めましたが、わずか1日で突破されて会津藩内への侵攻を許しました。

会津若松城下町の戦闘

戸ノ口原での戦いに敗れた会津藩は会津若松城に籠城して1カ月にわたり抵抗しました。会津若松城は新政府軍に包囲され、連日、砲弾が数千発撃ち込まれました。会津藩の家臣たちは女性や子供に至るまで戦い参加し、会津藩家老西郷頼母の妻千恵子は新政府軍から辱めを受ける前に一族21人で自決するなど会津の町は壮絶な戦場と化しました。

福島県会津若松市の旧滝沢本陣

滝沢本陣

延宝6年(1678年)に築造された陣屋で、母成峠が突破された報を受けた松平容保が陣頭指揮を執りました。

福島県会津若松市の戸ノ口原古戦場

戸ノ口原古戦場

戸ノ口原からの援軍を求める知らせに応じて、松平容保はやむを得ず16~17歳で結成された白虎隊中二番隊に出陣命令を出して守備に当たらせました。

福島県会津若松市の旧滝沢本陣_銃痕

旧滝沢本陣の銃痕

藩主の御座之間、家臣が座る御次之間には当時の砲弾の跡や刀傷が残されています。

福島県会津若松市の旧滝沢本陣_刀傷

旧滝沢本陣の刀傷

会津若松城の城下町は激しい戦いの舞台となり、会津戦争でつけられた弾痕や刀傷は旧滝川本陣にしか残りません。

福島県会津若松市の御茶屋御殿

御茶屋御殿

会津藩が薬草研究のため整備した御薬園は、戊辰戦争で新政府軍の野戦病院として利用され、園内にある御茶屋御殿はその療養所となりました。

福島県会津若松市の御薬園楽寿亭の刀傷

楽寿亭の刀傷

御薬園は戦禍を免れたと言われますが、楽寿亭と呼ばれる茶室には刀傷が残されています。

白虎隊の悲劇

戸ノ口原の戦いで敗走した白虎隊は、戸ノ口洞門を抜けて飯盛山に退却しました。飯盛山から黒煙に包まれた会津城下町を見た白虎隊士は、全員で自刃して果てる道を選びました。

福島県会津若松市の飯盛山の戸ノ口堰洞穴

戸ノ口堰洞穴

戸ノ口原で交戦した白虎隊は、奮戦むなしく敗走しました。白虎隊士は農業用水路の戸ノ口洞門を抜けて飯盛山に退却しました。

福島県会津若松市の飯盛山の白虎隊自刃の地

白虎隊自刃の地

白虎隊士たちは玉砕か帰城かを巡り激論を交わしますが、最終的に潔く自刃して武士の本文を明らかにする決断を下して全員が自刃しました。

福島県会津若松市の飯盛山の白虎隊士十九士の墓

白虎隊士十九士の墓

牛ヶ墓村の吉田伊惣次は、白虎隊士の亡骸を密かに妙国寺に仮埋葬して獄舎に送られました。白虎隊士は七回忌に飯盛山に埋葬されて弔われました。

福島県会津若松市の飯盛山の飯沼貞吉之墓

飯沼貞吉之墓

白虎隊士の飯沼貞吉は脇差で喉を突いて自決しようとしましたが、刃先が喉の骨で突き通らず意識不明で倒れているところを助けられ一命を取り留めました。