自然保護発祥の地・尾瀬

福島県、群馬県、栃木県、新潟県の4県にまたがる尾瀬国立公園は、周囲の山と冬の寒さ、豊富な水が独特な景観を生み出すとともに多様な高山植物の宝庫でもあります。1年の半分は雪に閉ざされ5月半ばころまで雪が残り、湿原は短い夏を謳歌するように美しい花が咲き乱れます。
尾瀬の形成
尾瀬の景観は、尾瀬火山群の火山活動と地殻変動により形成しました。檜枝岐層群の平坦状の高原地形は西の蛇紋岩の山が隆起して至仏山を形成し、景鶴山や燧ヶ岳の噴火活動により現在の景観が生まれました。これらの尾瀬火山群の度重なる火山活動の溶岩は川を堰き止め、やがて湿地が形成されていきました。
湿原の形成
湿原はかつての湖や池で、水生植物が生えていました。北海道や本州の高地などは気温が低く酸素が少ないため、微生物の活動が抑えらえて草が枯れたあとも分解されずに泥炭として残りました。これが堆積されていき、ミズゴケが覆うようになり高層湿原を形成しました。高層湿原は柔らかい層で形成されており、微妙な生態系を生みだしています。

尾瀬ヶ原
長い年月をかけて枯れた水生植物が堆積し、柔らかい泥炭層を形成しました。泥炭層は川の水や湧水を溜め、数多くの貴重な動植物が生育する環境をつくりました。

高層湿原と池塘
高層湿原は泥炭が高く堆積して周囲の地面や水位の上をミズゴケが覆うものです。池塘と呼ばれる池が点在しており、これらの環境を保護するため木道が敷設されています。
武田久吉が伝えた尾瀬
武田久吉は英国外交官アーネスト・サトウの次男として生まれ、英国で植物学を修め、京都帝国大学や北海道帝国大学で講師を務めました。明治38年(1905年)に武田博士は初めて尾瀬を訪れ、その感動を紀行文に記して尾瀬が認知されるようになりました。
尾瀬の危機
明治時代末期から水力発電の開発計画が持ち上がり、平野長蔵はこれに反対して尾瀬に永住しつつ政府に嘆願書を提出しました。日中戦争の勃発やアジア太平洋戦争の終結で電力が求められるようになり、尾瀬ヶ原のダム建設が現実味を帯びてくると、平野長蔵の子・平野長英が父の意志を引き継いで反対の意思を唱えました。この反対活動の中心となる武田博士は、新聞や雑誌で土地の希少性を訴え続け、尾瀬を守り抜いたことで尾瀬の父と呼ばれるようになりました。
車道建設反対運動
尾瀬の危機はダム建設だけではありませんでした。群馬県片品村から尾瀬沼湖畔を通り福島県檜枝岐村に至る道は沼田街道と呼ばれ、会津と沼田を結ぶ重要な街道でした。昭和30年代のモータリゼーション化により車道の建設が叫ばれましたが、平野長蔵の孫・平野長靖を中心に反対運動が起こり車道建設が断念されました。こうした先人たちの保護により、尾瀬は日本の自然保護発祥の地と呼ばれています。

平野家墓地
尾瀬を開拓した平野長蔵をはじめとする平野家の墓地です。尾瀬の父と呼ばれた武田博士の遺徳を追慕するため、武田博士の愛用品も埋葬されています。

大江湿原
尾瀬沼湖畔には会津と沼田を結ぶ沼田街道があり、戊辰戦争で会津藩が陣を構築するほど重要な街道であるため、昭和時代に道路建設の計画が持ち上がりました。
尾瀬を歩く
尾瀬ヶ原や尾瀬沼を日本百名山の燧ヶ岳と至仏山が挟み込むような地形をしています。平成17年(2005年)に特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約(ラムサール条約)に尾瀬が登録され、昭和9年(1934年)に日光国立公園の一部として指定されていましたが、平成19年(2007年)に会津駒ヶ岳らを新たに含めて尾瀬国立公園として指定されました。

尾瀬ヶ原
本州で最大規模の高層湿原で、早朝の朝靄が発生することで知られています。鳩待峠から木道を下ると広大な湿原が広がり、ミズバショウなどが咲き誇ります。

尾瀬沼
尾瀬沼は周囲約7キロメートルある沼で、沼山峠から大江湿原を抜けたところにあります。沼山峠から尾瀬沼まではおよそ1時間のコースタイムです。
燧ヶ岳
燧ヶ岳は尾瀬のシンボル的な山で、俎嵓、柴安嵓、ミノブチ岳、赤ナグレ岳、御池岳の5つの峰の総称です。およそ35万年前の燧ヶ岳の噴火により尾瀬沼や尾瀬ヶ原の原型が作られたとされます。頂上付近は柴安嵓と俎嵓の双耳峰を成し、最高峰の柴安嵓は東北以北最高峰を誇ります。
- 山行日
- 2005/10/07
- 天 候
- 晴れ
- ルート
- 尾瀬御池(08:55)~広沢田代(10:00)~熊沢田代(10:55)~俎嵓(12:10)~柴安嵓(12:30)、昼食、柴安嵓(13:15)~俎嵓(13:30)~熊沢田代(14:30)~広沢田代(15:05)~尾瀬御池(16:00)
- 地 図
- 山と高原地図「尾瀬」
- 同行者
- ひめ
- 標 高
- 燧ヶ岳(2356m)

広沢田代
尾瀬御池の緩やかな道から急な登山道に入り、木道の階段が現れると展望が開けて最初の湿原に到着します。一直線の木道の周囲にはワタスゲなどの高山植物が咲き誇ります。

熊沢田代
広沢田代に次いで現れる高層湿原で、眼前には湿原と燧ヶ岳が眺められます。ここからの景色は尾瀬を代表する景色のひとつでもあります。

俎嵓
熊沢田代を進むとガレ場が出て来て歩きにくいです。遭難が多発しているとの看板を通過すると、最初のピークである俎嵓に到着します。

柴安嵓
俎嵓から柴安嵓までは岩稜帯が続きます。柴安嵓は燧ヶ岳の最高峰にあたり、眼下には尾瀬ヶ原や尾瀬沼を一望することができます。
至仏山
花の百名山としても知られており、夏には高山植物が咲き乱れます。至仏山への登頂は鳩待峠からピストンするルートと山の鼻を経由するルートがありますが、山の鼻から至仏山へのルートは登り専用であり下ることはできません。山の鼻から至仏山へのルートは4月中旬から5月初旬まで通行でき、この期間のあとから6月中旬まで全ての至仏山登山道が閉鎖されます。
- 山行日
- 2010/10/16
- 天 候
- 晴れ
- ルート
- 鳩待峠(12:40)~オヤマ沢田代(13:40)~小至仏山(14:10)~至仏山(14:45)~小至仏山(15:40)~オヤマ沢田代(16:05)~鳩待峠(16:55)
- 地 図
- 山と高原地図「尾瀬 燧ヶ岳・至仏山」
- 同行者
- ひめ
- 標 高
- 至仏山(2228m)、小至仏山(2162m)

鳩待峠
鳩待峠から至仏山までは基本的に緩やかな道を歩くことになります。木道が敷かれた歩きやすいブナ林を上り詰めるとオヤマ沢田代に到達します。

オヤマ沢田代
オヤマ沢田代のあたりで森林限界に達してハイマツが見られるようになります。視界も良く尾瀬沼の奥には双耳峰の燧ヶ岳を望むことができます。

小至仏山
湿原帯を抜けるとかっこいい小至仏山が見えてきます。小至仏山は岩稜帯のように見えますが、見た目ほど岩場があるようには感じません。

至仏山
小至仏山から至仏山山頂までは大きな岩を縫うように歩くことになります。至仏山は蛇紋岩でできているため、ツルツルに磨かれて滑りやすいです。