南会津郡

南会津郡は神奈川県とほぼ同じ面積を有する本州で最も広い地域です。山岳に囲まれた高原地帯で、面積の9割を森林が占める自然の宝庫で、尾瀬国立公園や只見ユネスコエコパークに指定されています。豪雪地帯ならではの自然景観のほか、木賊温泉や深沢温泉などの秘湯があることでも知られています。
概要
- 面積
- 2,341.53km2
- 人口
- 23,378人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 下郷町、檜枝岐村、只見町、南会津町
- 地図
特集
歴史
平安時代末期の平家の滅亡に伴い、平家の落人たちが山岳地帯の檜枝岐村を開拓して住むようになりました。江戸時代に会津と江戸を結ぶ下野街道が整備され、大内宿などの宿場町が大いに栄えました。アジア太平洋戦争の終結後にダム建設が盛んに行われ、戦後の復興と高度経済成長を支えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
人の営みの痕跡は、縄文時代から残されています。縄文時代中期の寺前遺跡や縄文時代晩期の村下遺跡から集落跡が見つかり、堂平遺跡からは縄文時代後期の石棺墓が見つかりました。窪田遺跡は縄文時代後期から弥生時代中期にかけての集落跡で、一度埋葬された遺体を改めて骨壺などの容器に納めて埋葬し直す再葬墓が見つかりました。

塔のへつり
100万年かけて阿賀川の浸食と風化により形成した景勝地です。へつりとはこの地方の方言で川に迫る断崖や急斜面の意味があります。

窪田遺跡
縄文時代後期から弥生時代にかけて造営された集落跡です。再葬墓が見つかるほか、弥生時代の農耕の遺物とされる河原石製の石包丁も出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代の集落跡は見つかりますが、権力を象徴するような古墳は見つかりません。古墳が造営されていない理由として、会津盆地や中通り地方に権力が集中していたことが考えられています。
奈良時代、平安時代
平清盛が平家を最盛期に導くと、後白河天皇の第三皇子・高倉宮以仁王が平家追討の兵を挙げました。以仁王は戦いに敗れて大内宿に落ち延び、ここで生涯を終えた伝説が残されています。やがて平家が滅亡すると、平家の落人たちが痩せた土地の檜枝岐村を開拓したとされます。
鎌倉時代、南北朝時代
文治5年(1189年)に奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、会津六郡を佐原十郎義連、河原田近江守盛光、長沼五郎入道宗政、山ノ内季基に与えました。佐原氏は葦名氏と称し、長沼氏は長江荘を所領とし、山ノ内氏は山ノ内七騎党と呼ばれる軍事体制を作り上げました。鎌倉時代の末法思想により、檀原経塚から経筒の破片が出土しています。
室町時代、安土桃山時代
蘆名氏が台頭すると長沼氏と山ノ内氏は葦名氏に従属するようになりました。蘆名家の家督争いで蘆名家中が伊達派と佐竹派に分裂すると、長沼氏は伊達氏に従うようになりました。天正17年(1578年)の摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、長沼盛秀は伊達氏に帰順して山ノ内氏は徹底抗戦を続けました。翌年の豊臣秀吉の奥州仕置により長沼氏は伊達氏とともに当地を離れ、山ノ内氏は新領主の蒲生氏郷の下で存続しました。

鴫山城跡
南会津に君臨した長沼氏が本拠とした愛宕山に築かれた城です。直江兼続の弟である大国但馬守実頼が城代を務めたことでも知られます。

久川城跡
天正17年(1589年)に伊達政宗の来襲に備えて河原田盛次が急遽築城しました。戦国近世初頭の山城として貴重な史跡で、伊達軍は伊南川を越えらず守られました。
江戸時代
蒲生氏、上杉氏、加藤氏と相次いで領主が変わり不安定な領土経営となりますが、保科正之が会津藩主となり下野街道を本格的に整備して交通の要衝となり、下野街道に田島宿や大内宿などが設置されました。享保5年(1720年)に南会津町の百姓が年貢の減免について幕府に直訴する御蔵入騒動が起こりました。

下野街道
日光と会津若松を結ぶ全長130キロの街道で、参勤交代や物資を運ぶ街道として使用されました。街道には大内宿などの宿場町が整備されました。

大内宿
下野街道に設けられた宿場町で、戊辰戦争で大きな被害を受けました。会津藩主が参勤交代した際に滞在する大内宿本陣が復元されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治元年(1868年)の戊辰戦争で沼山が激戦となり、多数の戦死者を出した会津軍は後退し、やがて会津藩は降伏して会津藩領は新政府に接収されました。明治2年(1869年)に若松県が誕生して、明治9年(1876年)に福島県に編入されました。明治17年(1884年)に国道121号線が整備されたことで大内宿は衰退しました。明治時代後期には尾瀬が全国に知られ、檜枝岐村は尾瀬への玄関口として林業から観光業へ基盤を移していきました。
戦後の電力開発
アジア太平洋戦争の終結に伴う戦後復興と経済発展のため、只見川水系を利用した大規模な電源開発事業が国策として推進され、田子倉ダムや只見ダムなどが建設されました。日本有数の高層湿原である尾瀬も水没の危機となり、ダム建設反対運動が起こりました。
天上の楽園・会津駒ヶ岳
檜枝岐村の北西にある会津駒ケ岳は、隆起平原が浸食されて生成しました。日本百名山を著した深田久弥は、幸福感が私を恍惚とさせたと感動を記しています。山頂付近は高層湿原が広がり、青い空を映し出す湿原は天上の楽園とも称されています。
- 山行日
- 2005/10/08
- 天 候
- 晴れ
- ルート
- 滝沢登山口(07:55)~水場(09:15)~駒ノ小屋(10:25)~山頂(10:45)~駒ノ小屋(10:55)~登山口(12:35)
- 地 図
- 山と高原地図「尾瀬」
- 同行者
- ひめ
- 標 高
- 会津駒ヶ岳(2132.4m)

会津駒ヶ岳稜線
ミズナラ林の林道を抜けると急な階段のブナ林を登ります。水場を過ぎるとブナにダケカンバが混じるようになり、さらに高度を上げると湿原地帯が広がります。

会津駒ヶ岳と駒ノ大池
なだらかな稜線に高層湿原が広がり、眼前に会津駒ヶ岳を眺めることができます。駒ノ小屋に到着すれば会津駒ケ岳の山頂まではもう少しです。