水戸学と尊王攘夷運動

水戸藩2代藩主・徳川光圀が始めた大日本史の編纂は、尊王攘夷を根幹とする水戸学の基盤となりました。9代藩主徳川斉昭は水戸学を教育する機関として弘道館を創設し、ここで学んだ生徒が尊王攘夷へと動き出しました。水戸藩が推し進めた尊王攘夷運動は全国へと広がり明治維新へと繋がりますが、同時に水戸藩を二分する争いへと発展しました。
徳川光圀と大日本史
水戸藩2代藩主徳川光圀は中国の歴史書から影響を受け、明暦3年(1657年)から大日本史の編纂を始めました。大日本史は天皇家が主人公として書かれた歴史書で、徳川光圀が死去して一時中断しましたが、6代藩主徳川治保が水戸藩の学者立原翠軒に依頼して再開させました。立原翠軒の弟子・藤田幽谷は藩政を批判したことで大日本史の編纂から外されましたが、再び大日本史の編纂に携わるようになると息子の藤田東湖や弟子の会沢正志斎を登用して編纂を進めています。

水戸光圀像
水戸藩2代藩主で水戸黄門として親しまれています。大日本史の編纂を始めたほか、儒学を推奨して水戸学の基礎を築きました。

大日本史完成の地
初代神武天皇から百代後小松天皇までの歴史が詳細にまとめられた歴史書で、明治39年(1906年)に完成しました。最終的にその巻数は397巻にも及びます。
尊王攘夷運動の広まり
日本の太平洋沿岸では、捕鯨を行う欧米諸国の船舶が目撃されるようになり、文政7年(1824年)にイギリスの捕鯨船が水や食料を求めて大津村の海岸に上陸する事件が起こりました。水戸藩から相談を受けた幕府はイギリス人に水と食料を提供を決断しますが、この事件は藤田幽谷ら水戸藩の学者たちを刺激し、幕府の弱腰外交に避難するようになりました。
宝島事件と異国船打払令
薩摩藩の宝島にイギリス捕鯨船が訪れ、牛を強奪したイギリス人と島の役人が銃撃戦となる宝島事件が起こりました。これを契機として幕府は異国船を追い返す異国船打払令を発令し、海からの侵略に警戒を始めました。会沢正志斎は外国の侵略に対抗するために天皇を絶対とする思想統一の必要性を新論として纏めますが、8代藩主徳川斉脩は過激な新論の刊行を禁止しました。しかし、一部の藩士の支持を受けて出版されることとなり、天皇を尊び外敵を打ち払う尊王攘夷の思想が全国へと広まりました。
水戸学の創始(弘道館と偕楽園)
9代藩主徳川斉昭は、天保12年(1841年)に日本最大規模の藩校である弘道館を開設しました。弘道館の教育は強い思想を叩き込み、水戸藩の国学として水戸学と呼ばれるようになりました。徳川斉昭の子で最後の将軍となる徳川慶喜は、幼少期に弘道館で学問や武道を学んでいます。徳川斉昭は登用した学者たちと藩政改革を行い、未開の蝦夷地の開拓や西洋武器の国産化など推し進めました。

旧弘道館正門
学問を学ぶ文館、武術を学ぶ武館のほか医学館などが設けられる江戸時代の総合大学で、身分にとらわれず優秀な学者が教師として抜擢されました。

弘道館正庁
弘道館の初代教授頭取に会沢正志斎が就任しました。藤田東湖による教育理念に基づき年齢を問わず学問が授けられました。

偕楽園
日本三名園のひとつで、弘道館と一対となる教育施設として天保13年(1842年)に造営されました。京都から移植した孟宗竹林は弓の材料になりました。

偕楽園好文亭と梅林
徳川斉昭は自筆で好文亭の設計図を作り細かい指示を与えています。敷地内に植えられた3千もの梅は有事に非常食になるため植えられました。
黒船来航と揺れる日本
強硬な藩政改革の断行は藩内で改革派と保守派(門閥派)の対立を招き、徳川斉昭は弘化元年(1844年)に幕府から藩主辞任と謹慎を命じられました。藤田東湖や会沢正志斎ら士民の雪冤運動により謹慎は解かれますが、それから間もない嘉永6年(1853年)にペリー率いる黒船が来航する事件が起こりました。幕府の重臣たちは黒船の対応について各藩に意見を求め、幕府の老中阿部正弘は外国情勢に詳しい徳川斉昭を海防参与に抜擢しました。徳川斉昭は大砲を製造して東京湾の防備を固め、日本初の洋式軍艦・旭日丸を建造しました。
尊王攘夷運動の高まり
老中阿部正弘が死去して開国派の堀田正睦が老中を引き継いだことで幕府は鎖国から開国へと舵を切りました。安政3年(1856年)にアメリカ総領事タウンゼント・ハリスが江戸を訪れ、日米修好通商条約の締結を求めました。老中堀田正睦は孝明天皇に上奏しますが、外国嫌いの孝明天皇が条約締結の調印を拒否したことで尊王攘夷派の機運が一層高まりました。
将軍継嗣問題と日本の開国
幕府は将軍徳川家定の後継者について、徳川御三家の紀伊藩主徳川慶福と徳川御三卿の一橋慶喜で意見が分かれていました。一橋慶喜は水戸藩主・徳川斉昭の息子であるため、南紀派の会津藩主・松平容保や井伊直弼らは徳川慶福を擁立し、徳川家茂を将軍として井伊直弼を大老としました。井伊直弼は堀田正睦から引き継いだ条約の締結を天皇の許可を取らずに断行したため、尊王攘夷派の反感を買うことになります。
戊午の密勅と安政の大獄
徳川斉昭は、天皇に無断で条約を締結した井伊直弼に説明を求めて江戸城に押しかけましたが、この行為が不時登城の罪にあたるとして水戸に永蟄居を命じられました。水戸の天狗党はこれまで南紀派の策略で一橋慶喜を将軍に擁立できず、藩主徳川斉昭が永久蟄居に命じられたことに不満を募らせていました。そこに孝明天皇が攘夷を推し進めるよう戊午の密勅を送ったことで、水戸藩内は改革派の天狗党と保守派の門閥派で対立しました。幕府は戊午の密勅を尊王攘夷派の捏造とみなし、尊王攘夷派を弾圧する安政の大獄に発展しました。

徳川斉昭と慶喜
徳川慶喜は水戸藩主徳川斉昭の9番目の男児として生まれ、11歳で一橋家の養子となり、慶応2年(1867年)に15代将軍となりました。

常磐神社
明治元年(1868年)に偕楽園に建立した祠堂を前身とした神社で、2代藩主の義公・徳川光圀と9代藩主の烈公・徳川斉昭が祀られています。
桜田門外の変
戊午の密勅により幕府は水戸藩を徹底して弾圧し、水戸藩は勅書の天皇返納を巡り天狗党と諸生党で争いました。勅書返納に反対していた天狗党の高橋多一郎は同じく天狗党の水戸藩士とともに脱藩し、桜田門外の変を起こして井伊直弼を暗殺しました。桜田門外の変は各地の尊王攘夷派を刺激し、長州藩や土佐藩は朝廷に働きかけて攘夷運動が活発化していきました。
禁門の変
桜田門外の変で各藩からの信用が大きく失墜した幕府に対して、朝廷は攘夷実行の決断を求めました。幕府は一橋慶喜を将軍後見職として朝廷との交渉に当たらせ、将軍徳川家定は攘夷を実行して長州藩の久坂玄瑞が関門海峡を封鎖して異国船を打ち払うようになりました。長州藩の行き過ぎた行動に薩摩藩や会津藩が反発し、長州藩は京都を追われて攘夷運動が下火となりました。
天狗党の乱
水戸藩の横浜港封鎖論と薩摩藩の貿易による武備充実論が決裂すると、一橋慶喜は横浜港を閉鎖して鎮静化させようとしたため、元治元年(1864年)に藤田東湖の四男・藤田小四郎の呼びかけで天狗党が筑波山で挙兵しました。水戸藩家老市川弘美は幕府の後ろ盾を得て弘道館の生徒を招集して諸生党を結成し、弘道館で学んだ水戸藩士が争う事態になりました。天狗党は浪士や農民がほとんどを占めていたため資金不足となり、町役人や農民から金品や食料を強奪するようになりました。
天狗党の鎮圧
幕府が天狗党討伐の兵を挙げると、天狗党は多宝院の幕府兵に夜襲を仕掛けたため、諸生党は水戸に住む天狗党の家族を殺害するなど報復を行いました。天狗党は水戸藩主邸を占拠する一方、諸政党は水戸城を占拠する内乱となり、これを見かねた宍戸藩主松平頼徳は天狗党幹部の武田耕雲斎や山国兵部を水戸城に派遣しました。水戸城の諸政党は開城を拒んで幕府の支援を受けて、天狗党が加わる宍戸藩と那珂湊で戦いとなりました。この戦いで敗走した天狗党は一橋慶喜を頼り京に向かう途中の敦賀で降伏・処刑され、宍戸藩主松平頼徳らは天狗党に加担した罪で切腹を言い渡されました。
弘道館の戦い
慶応4年(1868年)王政復古の大号令により幕府に捕らえられていた人びとが開放され、武田耕雲斎の孫である武田金次郎が天狗党の残党などを纏めてさいみ党を結成して水戸藩を掌握しました。戊辰戦争が始まると、さいみ党は諸生党を倒すため水戸に進軍し、水戸は大混乱に陥りました。さいみ党に水戸を追われた諸生党は会津藩に合流しますが、圧倒的な新政府軍に敗れて会津藩は降伏しました。

水戸城
会津藩の降伏により行き場を失った市川弘美ら諸生党は水戸城を目指しましたが、改革派の家老山野辺義芸らが防御を固めていたため弘道館を拠点としました。

弘道館正門
改革派は弘道館を攻めて激しい銃撃戦となり諸生党を追い出しますが、弘道館の多くの建物や貴重な蔵書が焼失しました。敗走した諸政党はさいみ党の追撃で全滅しました。