水戸市
茨城県水戸市は茨城県のほぼ中央に位置する県都です。関東平野の北東部に位置して那珂川とその支流の桜川が貫流し、那珂川の舟運の河港として盛えたことから水運の戸口として水戸と呼ばれるようになりました。全国的に有名な水戸納豆の生産で有名です。
概要
- 面積
- 217.32km2
- 人口
- 270,431人(2021年12月1日)
- 市の木
- ウメ
- 市の花
- ハギ
- 市の鳥
- ハクセキレイ
- 市の歌
- 水戸市歌
- 地図
特集
水戸学と尊王攘夷運動
徳川光圀が始めた大日本史の編纂は尊王攘夷を根幹とする水戸学の基盤となりました。幕末に水戸藩が推し進めた尊王攘夷運動は全国へと広がり明治維新へと繋がりました。
歴史
水戸市は太古から人びとが漁労を中心として生活を行い、残された貝塚には伝説の巨人ダイダラボウの伝説が残ります。鎌倉時代に大掾氏が領有して北条氏や佐竹氏などの争奪の地となりますが、江戸時代に徳川御三家のひとつ水戸徳川家が成立すると城下町が拡張されて、那珂川の舟運の河港として盛えました。水戸徳川家が広めた儒教を中心とした尊王攘夷思想は水戸学と呼ばれ、幕末の志士に大きな影響を与えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
十万原遺跡で3万年前の石器が発見されたことに始まります。1万数千年前の赤塚西団地遺跡や開江遺跡などでは狩猟に使用された道具や獲物を加工した道具が発見されています。縄文時代の中期になると河和田町圷遺跡のように集落も大きくなり、縄文時代後期から晩期の金洗沢遺跡で精巧な土器や信仰に使われた土偶などが見つかりました。2世紀頃に稲作が伝わると大塚新地遺跡や柳河遺跡などに集落が広がりました。
大串貝塚
涸沼川をのぞむ那珂台地の先端にある縄文時代前期の貝塚で、沿岸部で採取した魚貝類や獣骨のほか土器や石器が発見されています。
ダイダラボウ
大串貝塚と同じ時期に造営された柳崎貝塚は、伝説の巨人ダイダラボウが食べた貝や魚を吐き捨てて貝塚がつくられた伝説が残ります。
古墳時代、飛鳥時代
4世紀末に大和朝廷の統治力が及んで支配者の象徴である古墳が造られるようになりました。水戸で最も古い安戸星古墳が造営されてから、5世紀中頃には大型古墳が造られるようになり、内原地区では北部丘陵地帯のごく狭い範囲に多数の前方後円墳が集中する牛伏古墳群があります。
愛宕山古墳
那珂川右岸の台地上に5世紀前半に築造された県内3位の規模を持つ前方後円墳です。古代仲国の初祖建借間命の墓とされています。
吉田古墳
7世紀に造られた多角形墳で石室の壁面に線刻による絵画が見られます。
奈良時代、平安時代
承平5年(935年)から天慶3年(940年)にわたる平将門の乱は、常陸国の武士階級の成長を促すことになりました。平将門の乱が平定されると大掾氏が常陸各郡に子孫を分封し、平将門と敵対した平国香の子孫・吉田太郎幹清と石川次郎家幹が吉田・那賀両郡を治めました。石川次郎家幹の次男・馬場小次郎資幹は源頼朝に重んじられ、建久4年(1193年)に常陸大掾氏の本宗を継承して馬場大掾氏の祖となりました。
臺渡里官衙遺跡
大化の改新により常陸国府が府中(現石岡市)に置かれ、常陸国那珂郡の古代役所である官衙が渡里町に置かれました。
臺渡里廃寺跡
7世紀後半に観音堂山地区に造営された古代寺院は、9世紀頃に焼失して南方地区に建替えられたとされています。
鎌倉時代、南北朝時代
馬場大掾氏が南に千波湖を控え那珂川を背後にした狭小な上市台地の先端に馬場館を置いて本拠とし、のちに水戸城が築城されることになります。鎌倉幕府が滅亡して中先代の乱が起こると、大掾高幹は北条方に加わり足利尊氏軍を迎え撃ちましたが、足利尊氏が鎌倉入りすると降伏しています。南北朝時代には南朝の小田治久、春日顕国らが北朝方佐竹氏や鹿島氏と対立しました。
室町時代、安土桃山時代
室町幕府により鎌倉に鎌倉府が置かれると、鎌倉公方とそれを補佐する関東管領が配置されました。鎌倉公方足利持氏は小田氏の所領を巡り関東管領上杉禅秀と意見が対立し、関東管領を辞職した上杉禅秀が応永23年(1416年)に上杉禅秀の乱を起こしました。馬場満幹は上杉方につきましたが、これに敗れたため所領を没収されて応永33年(1426年)に江戸通房が支配することになりました。
後北条氏の台頭
後北条氏が勢力を拡大していくと、江渡重道は佐竹氏に従属する形で後北条氏の侵攻に対抗しました。江渡重道は天正15年(1587年)に鹿島氏の鹿島郡を制圧して翌年に大掾清幹を降伏させました。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐では江渡重道は大掾氏の反撃に備えて出陣しなかったため、小田原征伐後に常陸国を与えらえた佐竹義宣が水戸城を攻めて江戸氏を滅ぼしました。佐竹氏は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで消極的態度を咎められ、慶長7年(1602年)に出羽秋田に移封されました。
江戸時代
慶長7年(1602年)に徳川家康の五男・武田信吉が水戸城主となりますが、翌年に病死して十男・徳川頼宣が入りました。慶長14年(1609年)に十一男・徳川頼房が水戸城主となると、慶長15年(1610年)に関東郡代の伊奈備前守忠次が備前堀を整備して治水対策を行いました。2代藩主・徳川光圀は笠原水道を開設したほか、江戸小石川の藩邸と水戸城二の丸に彰考館を設けて大日本史の編纂を始めました。
尊王攘夷運動
安政5年(1858年)の日米通商条約調印問題や将軍継嗣問題をめぐり9代藩主徳川斉昭が大老井伊直弼と対立して失脚すると、戊午の密勅の影響もあり金子孫二郎らが脱藩して桜田門外で井伊直弼を暗殺しました。藤田東湖の四男藤田小四郎ら天狗党は元治元年(1864年)に天狗党の乱を起こし、改革派の天狗党と保守派の諸生党の争いは明治元年(1868年)まで繰り広げられました。
水戸城跡
佐竹氏が近代城郭に改修した城で水戸徳川家の居城となりました。徳川頼房は城下町の大改修を行い、城の東部の湿地を埋め立てて町を拡張しました。
笠原水道
徳川光圀が寛文3年(1663年)に整備した10キロにも及ぶ上水道で、水戸下町の飲料水不足を解消しました。
旧弘道館
会沢正志斎の新論、藤田東湖の弘道館記述義により説かれた尊王攘夷思想を根本とする水戸学は、吉田松陰をはじめとする多くの志士に大きな影響を与えました。
常磐公園(偕楽園)
9代藩主徳川斉昭は文武の振興を目指した藩校弘道館を開設したほか、修業の余暇を利用しての休養を目的とした偕楽園を開園しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で水戸県となり、同年に茨城県と改められました。明治22年(1889年)には横浜市などとともに全国で初めて市制を施行して水戸市が誕生し、水戸鉄道の開通により水戸駅が整備されました。明治29年(1896年)に水戸から上野まで常磐線が開通して発展しました。昭和20年(1945年)の空襲で水戸市内の7割以上を焼失する大きな被害を受けました。
千波湖
那珂川の氾濫などで低湿地帯にできた浅い沼は、大正時代に3分の2が耕地として干拓されて千波湖となり、太平洋戦争で食糧不足の解消のために水田として利用されました。
千波公園
昭和40年(1965年)に開園した千波湖を中心とする都市公園で、アメリカ・セントラルパークに次ぐ世界第二位の広さがあります。