歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

日光山の開山と徳川将軍家霊廟

栃木県日光市の日光東照宮

勝道上人が四本龍寺を建立して日光の山岳信仰が始まると、二荒山神社の創建により関東一の霊場となりました。江戸幕府を開いた徳川家康は江戸の鬼門にあたる日光を安住の地と定め、徳川家康を崇敬する徳川家光は自身の霊廟を造営しました。徳川将軍家が霊廟を造営した男体山信仰の霊場は、平成11年(1999年)に日光の社寺としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。

勝道上人と日光

日光の歴史は勝道上人による日光山の開山に始まると言えます。下野薬師寺で唐僧鑑真和上の高弟・如宝僧都から戒を授けらえた勝道上人は、大剣ヶ峰で1年間の修行を経て、北方にそびえる男体山を目指しました。勝道上人は谷深い激流の大谷川に阻まれますが、深沙王が出現して橋を架け、無事に大谷川を渡河して日光に到達しました。

栃木県日光市の勝道上人像

勝道上人

勝道上人は日光山を開山した修験僧で、日光山信仰の基盤を築きました。四本龍寺を建立して男体山を開山したことで、日光を山岳信仰の聖地として確立しました。

栃木県日光市の神橋

神橋

勝道上人が神仏の加護により架けられた橋で、山菅橋と呼ばれていましたが、日本三大奇橋のひとつとして神橋と呼ばれるようになりました。

日光山輪王寺の創建

日光にたどり着いた勝道上人は、天平神護2年(766年)に小さな草庵を結び観音様を祀りました。草庵は四本龍寺と呼ばれるようになり、日光山は関東の一大霊場として空海や円仁ら高僧が訪れたとされます。豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏に加担したことで一時的に衰退しましたが、江戸時代に慈眼大師天海が住職となり復興し、明暦2年(1656年)に天皇家から輪王寺の称号が勅許され、日光門主と呼ばれた輪王寺宮法親王が住して幕末まで管理しました。

栃木県日光市の日光山輪王寺の三仏堂

三仏堂

天保2年(1645年)に徳川家光が建てた東日本最大級の木造の建物で、堂内には日光三社権現の本地仏である千手観世音菩薩、阿弥陀如来、馬頭観世音菩薩が祀られています。

栃木県日光市の日光山輪王寺の相輪塔

相輪塔

寛永20年(1643年)に慈眼大師天海が建立した塔です。天海は幕府の参謀として徳川家康を東照大権現として迎えた立役者で、江戸の寛永寺を創建したことでも知られます。

日光二荒山神社の創建

神護景雲元年(767年)に勝道上人は、二荒山大神を祀るために日光二荒山神社を創建しました。二荒山神社は下野国の一の宮として日光山岳信仰の中心として崇拝され、男体山、女峰山、多郎山の日光三山をご神体として祀ります。

栃木県日光市の二荒山神社の拝殿

二荒山神社の拝殿

元和5年(1619年)に2代将軍・徳川秀忠が建て直した建築物で、正保2年(1645年)に本殿の移転に伴い再建されました。

栃木県日光市の二荒山神社の本殿

二荒山神社の本殿

元和5年(1619年)に2代将軍・徳川秀忠が造営しました。日光山内に残された建物の中で現存最古の建築物で、元和創建当時の建築様式が現れています。

日光男体山を登る

日光男体山は山自体がご神体であり、山頂には日光二荒山神社の奥院があります。眼下に中禅寺湖を眺めることができる峯修行の霊場であり、明治5年(1872年)まで女人禁制を貫いていました。こうした歴史的背景から深田久弥は男体山を日本百名山に選定しています。

山行日
2010/09/18
天 候
晴れ
ルート
志津乗越(11:20)~一合目(11:30)~二合目(11:35)~三合目(11:40)~四合目(11:50)~五合目(12:05)~六合目(12:15)~七合目(12:25)~八合目(12:40)~九合目(12:50)~山頂(13:00)~五合目(14:20)~志津乗越(15:20)
地 図
山と高原地図「日光 白根山・男体山」
同行者
ひめ
標 高
男体山(2486m)
栃木県日光市の日光男体山

日光男体山

四本龍寺を拠点に修行した勝道上人は、天応2年(782年)に日光男体山の頂上を極めました。山自体が信仰の対象で、山頂には二荒山神社の奥宮があります。

栃木県日光市の二荒山神社志津宮

二荒山神社志津宮

日光連山の中心地であり、男体山、太郎山、大真名子山への登山が容易なため、昔から日光修験道の峯修行の重要な拠点とされました。

栃木県日光市の二荒山大神

二荒山大神

二荒山大神は親子三神からなる神様で、大国主命・田心姫命・味耜高彦根命の総称です。これらの神は、男体山、女峰山、太郎山をご神体としています。

栃木県日光市の中禅寺湖

中禅寺湖

男体山の眼下に眺められる中禅寺湖は日本屈指の高さにある湖で、男体山の噴火による溶岩で渓谷がせき止められて原型ができたと言われています。

徳川家康の霊廟

豊臣家を滅ぼした徳川家康は、元和2年(1616年)に将軍職を嫡男・徳川秀忠に譲り、死後の扱いを慈眼大師天海や以心崇伝らに託したとされます。元和2年(1616年)に徳川家康が崩御すると、遺言に従い久能山に移されたのち増上寺で葬儀が行われました。慈眼大師天海と以心崇伝らは家康の神号について対立しますが、元和3年(1617年)に朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階を追贈されたことで天海に軍配が上がり、家康は日光に遷されることが決まりました。

日光東照宮の創建

天海主導で日光山に社殿が完成すると、徳川家康の御神柩が久能山から日光奥院廟塔に改葬され、東照大権現として祀られました。3代将軍・徳川家光は祖父の徳川家康を強く崇拝し、寛永13年(1636年)に絢爛豪華な霊廟に大改修しました。境内には全国各地から集められた名工が国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物を造営し、正保2年(1645年)には大老酒井忠勝らの尽力で朝廷から宮号を与えられ、日光例幣使が派遣されるようになりました。徳川家光は諸大名に東照宮の造営を勧め、最盛期には700もの東照宮が各地に建てられました。東照宮は将軍家の権威を全国に知らしめる存在ともなり、日光はその総本山のような役割を担いました。

栃木県日光市の奥社拝殿

奥社拝殿

将軍のみが立ち入ることができる神聖な場所にある拝殿です。徳川家康の霊廟は遺言により質素な社殿が建立されることとなり、本多正純らを奉行として約半年で完成しました。

栃木県日光市の奥社宝塔

奥社宝塔

徳川家康の神柩で、創建当初は木造の宝塔でした。天和3年(1683年)の大地震で破損したため、5代将軍・徳川綱吉が唐銅製に変えて以来一度も開けられていません。

栃木県日光市の陽明門

陽明門

徳川家光が大改修した日光東照宮を代表する門で、名棟梁・甲良宗廣と天才絵師・狩野探幽が手掛けました。霊獣や花鳥、仙人賢人など500点以上の彫刻が施されています。

栃木県日光市の唐門

唐門

東照宮の本殿を守護するように建てられた門で、正面の昇龍と降龍の彫刻のほか、白く塗られた壁には600以上の細かな彫刻が施されています。

栃木県日光市の日光東照宮_三猿の彫刻

三猿の彫刻

全国から集められた名工は、各所に精細な彫刻を施しました。神厩舎にある8面彫られた猿の彫刻のうち、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿の彫刻が有名です。

栃木県日光市の日光東照宮_眠り猫

眠り猫

牡丹の花のしたで眠る猫の像で、伝説的な彫刻家・左甚五郎作と伝えられています。眠る猫は平和のシンボルとして彫刻されたとも言われます。

日光の杉並木

松平正綱は日光東照宮の造営を完了すると、寛永2年(1625年)から日光東照宮への参道にあたる日光街道、例幣使街道、会津西街道の3つの街道に植樹を始めました。24年の歳月をかけて20万本以上の杉を植樹した杉並木は、徳川家康33回忌に東照宮に寄進されました。

栃木県日光市の日光杉並木

日光杉並木

慶安元年(1648年)に寄進された松並木で、一般的な松ではなく背が高く頑強で寿命が長いスギが植樹されています。世界一長い並木道としてギネス認定されています。

輪王寺大猷院

3代将軍徳川家光は、死後に敬愛する徳川家康の近くで眠ることを願い、慶安3年(1651年)に死去すると遺言どおりに寛永寺から日光山輪王寺に葬られました。徳川家光の廟所は大猷院と名付けられ、東照宮を凌いではならないとの遺言により、金と黒塗りで重厚で落ち着いた霊廟が造営されました。

栃木県日光市の大猷院本殿

大猷院本殿

大猷院の中心となる本殿は、たくさんの金彩が使われているため金閣殿とも呼ばれます。内部には狩野探幽の描いた唐獅子、天井には140枚の龍の絵、家光が着用した鎧などがあります。

栃木県日光市の大猷院皇嘉門

大猷院皇嘉門

本殿の奥にある皇嘉門は、徳川家光の墓所である奥之院に至る門です。中国・明朝様式の竜宮造りの門で、竜宮門とも呼ばれています。

栃木県日光市の大猷院夜叉門

大猷院夜叉門

夜叉門に安置されている阿跋摩羅、毘陀羅、烏摩勒伽、犍陀羅の4体の夜叉が霊廟を守ります。夜叉門には牡丹の花が彫刻されているため、牡丹門とも呼ばれています。

栃木県日光市の大猷院夜叉門_烏摩勒伽

烏摩勒伽

夜叉門に安置されている烏摩勒伽は全国でも珍しい仏像で、破魔矢の原点となる矢を持ち、膝に施される像が膝小僧と呼ばれる由来となりました。

栃木県日光市の釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓

釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓

3代将軍・徳川家光に殉じた譜代家臣の5名、初代将軍・徳川家康及び2代将軍・徳川秀忠譜代家臣の墓碑19基の総計24基の墓碑が整然と並びます。